たわけじゃと申すわい」
「有難きしあわせ、早乙女主水之介は天下第一の大たわけ者でござります。さりながら、このたわけは只のたわけではござりませぬ。三河ながらの旗本はみなたわけ者、上、御政道、天下の為なら喜んでいのち棄てるたわけ者ばかりでござります。主水之介、天地に誓って身は潔白、御疑念晴れませねば、只今このところにおきまして、お紋の方様と対決致しましても苦しゅうござりませぬ」
「対決?」
「はッ。それにても御疑念晴れませねば伝通院の坊主どもお招きの上にて対決するともなお苦しゅうござりませぬ。上は二なき御明君、御明察願わしゅうござります」
「いずれにしても不埓者じゃ、不、不埓者めがッ」
「恐れ入ってござります。不義を強《し》いて天下を紊《みだ》そうといたしましたるは治右が不埓か、或いはまた貸すべからざる膝貸し与えたお紋の方様が不埓か、それとも御怒りに触るるを覚悟で、御意見代りにお膝汚し奉ったこの主水之介が不埓か、黒白は上のお目次第、もし万一、主水之介に不埓ありとの御諚《ごじょう》ならば、切腹、お手討、ゆめいといませぬ。おじきじきのお裁き願わしゅうござります」
「………」
「恐れながら御賢慮のほど、いかがにござります」
「憎い。いや、もう聞きとうない! 予は気分がわるうなった。見苦しい。もうゆけい!」
 清浄潔白、理非を正した主水之介の言葉に、怒りの的がなくなったのです。何ということもなく睨《にら》みつけて、やり場に困るお怒りをじりじりと押えつけていられたが、さッと褥を蹴って立ち上がると、荒々しげにおすだれ屏風のうしろへ消えました。
 しかし、よくよく御憤懣《ごふんまん》のやり場がなかったとみえるのです。つかつかとまたかえって来ると、叱りつけました。
「豊後、そちも不埓な奴じゃ。その方の申条とは大分違っておるぞ。憎い奴めがッ。ゆけい!」
 去りかけて、何となくまだそれではお胸のもやもやが晴れなかったとみえるのです。
「治右も不埓じゃ。お紋も不埓じゃ。いや、紋は可愛い。憎いは膝じゃ。たわけものたちめがッ。御意見代りに大切《だいじ》な膝借りるというたわけがあるかッ。貸すというても遠慮するが当りまえじゃ。三河流儀の旗本どもは骨が硬《かと》うて困る。お紋の膝だけは爾後《じご》遠慮するよう気をつけい。五位、行くぞ。参れ」
 犬はお膝がないから、しあわせでした。くるりと巻いた尾をふって、いらだたしげに消えた将軍家のあとから、ちょこちょこと姿を消しました。
 主水之介の潔白はついに通ったのです。
 豊後のおもては真ッ青でした。
 治右の手が廻っているといないとに拘わらず、大目付の役向きあるものが目違いした責《せめ》は免がれないのです。
 憎い奴めがッ、行けい、と御諚は只それだけだったが、取りようによっては黒白の見えぬ奴じゃ、切腹せい、という御上意にも取れないことはない。ましてや豊後も家門は同じ旗本、智恵者の評判の身を顧みたら、おのれの不明が恥ずかしくもなったに違いないのです。
 声もなくうなだれて、黙々と打ち沈んだままでした。
 引き替えて主水之介のほがらかさ。
「お介添《かいぞえ》、いろいろと御苦労でござった。そなたも同じ旗本、とかく旗本は大たわけ者に限りますのう。骨が硬うて困るとの仰せじゃ。飴《あめ》でも煎《せん》じて飲みましょうぞい。――お坊主! 早乙女主水之介罷りかえる。御案内下されい」
 サッ、サッと、袴の衣ずれが夜の大廊下にひびいて爽やかでした。

       一四

 表はもう四ツ近かった。
 暗い。
 大江戸は、目路《めじ》の限り、黒い布をひろげたような濃い闇です。
「供! 主水之介じゃ。供の者はおらぬか」
「あッ。おかえり遊ばしませ。よく、御無事でござりましたなあ」
「眉間の傷はのう。お城へ参っても有難い守り札じゃ。上様《うえさま》はいつもながらの御名君、先ず先ず腹も切らずに済んだというものじゃ。ゆっくりゆけい」
「お胸前は?」
「まだ馬鹿者が迷うて出ぬとも限らぬ。そのままつけて行けい」
 下乗橋からゆったり乗って、さしかかったのが常盤橋御門、ぬけると道は愈々暗い。
 お濠を越えて吹き渡る夜風がふわり、ふわりと柳の糸をそよがせながら、なぜともなしに鬼気《きき》身に迫るようでした。
 濠について街のかなたへ曲ろうとしたとき、不意です。
 殺気だ。
 窺測《きそく》の殺気だ。
 只の殺気ではない。
 刺客の窺い狙う殺気です。
 ひた、ひた、ひたと足首ころして忍び寄って来たその殺気が、ぴいんと主水之介の胸を刺しました。
 刹那です。
「あッ。殿様、狼藉者《ろうぜきもの》でござりまするぞッ!」
 声より早い。
 供の陸尺《ろくしゃく》たちが叫んだまえに、主水之介の身体はさッともうおどり出して仁王立ち、ぴたりと駕籠に身をよせながら、見す
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