一途の御諚が下るのは知れ切ったことでした。
すべては御癇癖が鎮まってからのこと。その御気色の軟らぐのを待つために、ことさら押し黙って、ことさらにおもてもあげずしんしんと平伏をつづけました。
策は当った。
次第に御癇の虫が軟らいだとみえて、先ずお座へ就かれました。
「茶! 茶! お茶はいずれじゃ」
「御前《おんまえ》にござります……」
お召しあがりになった気はいでした。
咽喉《のど》の乾きが止まれば、御癇の虫も止まる。
案の定、声にはまだ嶮《けわ》しい名残りがあったが、どうやら御心も鎮ったらしい御諚が下りました。
「申開きあらば聞いてえさせる。顔あげい!」
「はッ……」
もう頃合いです。
静かにおもてをあげると、朗々とめでたくもなだらかな声が流れ出しました。
「いつにないお爽やかな御気色《みけしき》、主水之介何よりの歓びにござります」
「なに! 爽かな御気色とは何じゃ! 予の怒った顔がそちには爽やかに見ゆるか!」
「またなきお爽やかさ、天下兵馬の権を御司《おんつかさど》り遊ばす君が、取るにも足らぬ佞人《ねいじん》ばらの讒言《さんげん》おきき遊ばして、御心おみだしなさるようではと、恐れながら主水之介、道々心を痛めて罷り越しましてござりまするが、いつにも変らぬそのお爽やかさ、さすがは権現様《ごんげんさま》お血筋、二なき御明君と主水之介よろこばしき儀にござります」
「黙れッ! たわけッ。佞人ばらとは何じゃ! 誰のことじゃ!」
「すなわち腰本治右衛門、まったお紋の方様、倶《とも》に天を戴きかねる佞人にござります」
「黙れッ。黙れッ。紋が佞人とは何じゃ! お紋は予が寵愛の女、またなく可愛い奴じゃ。たわけ申すと許さぬぞッ」
「それこそ佞人の証拠、御明君のお目を紊《みだ》し奉つるが何より佞人の証拠にござります。上は天晴れ御明君、われら直参旗本が自慢の御明君――」
「黙れッ、黙れッ、黙らぬかッ」
「いいや、上は御明君、天下に誇るべき御明君、主水之介もまたつねづねそれを思い、これを思い――」
「黙れと申すに黙らぬかッ」
「いいや、上は天晴れ御明君、天下二なき御明君を戴き奉つることほど、よろこばしき儀はござりませぬ。女魔と申すものはとかく美しきもの、御寵愛はさることながら、それゆえにお上ほどの御明君が、正邪のお目違い遊ばされたとあっては由々《ゆゆ》しき大事、只々御明察のほど願わしゅうござります……」
一にも明君、二にも明君、只明君々々と明君ずくめで押し通しました。賢明な策です。暗愚と言われたよりも明君と言われたら、八百万石のお心持も、さぞやいいお心持だったに違いない。将軍家のお顔いろは、果然軟らぎました。
「では、治右の申せし事、その方はみな偽りじゃと申すか」
「御意にござります。どのようなことどもお耳へ入れ奉ったかは存じませぬが、早乙女主水之介も三河ながらの由緒ある旗本、恐れながら上《かみ》、御寵愛のお部屋様ときくも憚《はばか》り多い不義密通なぞ致すほど、心腐ってはおりませぬ。すべて腰本治右の企らみましたるつくりごと、御賢察願わしゅうござります」
「でも治右は、その方がささに酔いしれて、紋にたわむれかけたと申しおるぞ」
「以ってのほかの讒言《ざんげん》、みなこの早乙女主水之介を罪ならぬ罪に陥し入れようとの企らみからでござります。上も御承知遊ばす通り、あの者はもと卑しき黒鍬上がり、権に驕《おご》って、昨今の身分柄もわきまえず、曲輪の卑しきはした女《め》に横恋慕せしが事の初まりにござります。小芳と申すその女、他へかしずきしを嫉《ねた》んで、あるまじき横道しかけましたを、はからずも主水之介、目にかけまして力となったが治右には目ざわり、あろうことかあるまいことか、上、御寵愛のお紋の方様をそそのかし、場所も言語同断の伝通院へこのわたくしを招き寄せ、ささのたわむれ、お膝のたわむれ、申すも恐れ多い御振舞い遊ばされたのでござります」
「なぜたわむれた! よしや治右《じえ》の企らみであろうとも紋は予が寵愛の女じゃ。知りつつその方がまたなぜたわむれた!」
「天下の為、上、御政道の御為にござります」
「たわけめッ! 将軍家が寵愛の女の膝にたわむるが何ゆえ天下の為じゃ!」
「父娘《おやこ》、腹を合せて不義を強《し》いるような不埓者、すておかば恩寵《おんちょう》に甘えて、どのような非望企らむやも計られませぬ、知りつつお膝をお借り申し奉ったは、みな、主水之介、上への御意見代り、いずれはお膝を汚し奉ったことも、御上聞に達するは必定《ひつじょう》、さすれば身の潔白もお申し開き仕り、御前に於て黒白のお裁き願い、君側の奸人《かんじん》どもお浄《きよ》め奉ろうとの計らい、君側の奸を浄むるはすなわち天下のため、上御政道のお為にござります」
「たわけめッ」
「は?」
「
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