にあらかじめ備えた影武者なのでした。鎧、兜、陣羽織、着付の揃いは元よりのこと、馬もお揃い、馬具もお揃い、葵の御定紋もまた同じくお揃い、敗軍お旗本総崩れの場合があったら、いずれがいずれと定めがたい同じいで立ちのその百騎の中へ将軍家がまぎれ入って、取敢えず安全なところへ落ち伸びるための、お身代り役なのです。
 眉間《みけん》の傷に名代を誇る主水之介の家門家格は、実に又江戸徳川名代を誇るそのお影組百騎の中の一騎なのでした。
 さればこそ、蓋を払うと同時に現れた胸前は、紫|縒糸《よりいと》、総絹飾り房の目ざましき一領でした。
 紋がある。八百万石御威勢、葵《あおい》の御定紋が、きらめきながらその房の中から浮き上がって見えるのです。
 はッと、斬り伏せられたように豊後守以下の顔が、青たたみへひれ伏しました。
 天下、この御定紋にかかっては、草木の風に靡《なび》く比ではない。薄紙のようになって豊後守たちが平伏している間を、うやうやしく京弥に捧げ持たせながら主水之介は、心地よげに打ち笑み打ち笑み庭先の乗物へ近づくと、自ら手を添えてその駕籠前にふうわりと飾りつけました。
 不審は解けたのです。
 対手は機略縦横、評判の切れ者なのでした。途中が危ない。機を見て闇から闇へ葬ろうとの企らみがあるとすれば、必ずともに道中いずれかに油断の出来ぬ伏兵の用意もしてあるに相違ないのです。
 槍という手もある。
 弓という手もある。
 それからまた種ガ島。
 こればかりは防ぎようがない。わざわざ駕籠先に馬の胸前を飾りつけさせたのは、実にその飛び道具の襲撃を避けるためでした。まことや金城鉄壁、天下も慴《ひれ》伏す葵の御定紋が、その切れ端たりとも駕籠の先にかかったならば、もう只の駕籠ではないのです。上将軍家のお召し駕籠も同然なのです。
 これを狙って、プスリと一発見舞ったとしたら、溝口豊後、切腹どころの騒ぎではない。一|門《もん》震撼《しんかん》、九族は根絶やし。――果然、道中何かの計画があったとみえて、見る見るうちに豊後守の顔が青ざめました。
「アハハハ……。御定紋なるかな。御紋なるかなじゃ。馬鹿の顔が見たいのう。豊後どの、御供御苦労に存ずる。では、参ろうぞ。駕籠行けい」
 いいこころもちでした。
 無言の御威光古今に聞える紫房の御定紋が、供先お陸尺の手にせる灯りの流れの中をふさふさとゆれて、駕籠は静かに歩み初めました。

       一三

 割下水からお城への道は、両国橋を渡って大伝馬町をのぼり、四丁め、三丁め、二丁めと本町をいって、常盤橋《ときわばし》御門から下馬止めへかかるのが順序でした。
 道は暗い。
 狙うなら恰度頃合い……。
 その両国橋へさしかかったとき、察しの通り、やはり刺客《しかく》が伏せてあったのです。橋袂《はしたもと》のお制札場の横から、ちらりと黒い影が動いたかとみるまに、銃《つつ》さきらしい短い棒がじりッとのぞきました。
 しかし駕籠には、無双鉄壁|弾《たま》よけの御紋どころがある。
 只の通りものではない。八百万石御威光が通るのです。うしろに間を置いて引き随っていた豊後守の乗物の中から、慌ててさッと手が出ると、打ちうろたえながら影を制しました。
 同時に銃さきらしい短い捧が、怪しむように引っ込みました。
「わッははは。御定紋なるかな、御紋なるかなじゃ、馬鹿の顔が見たいのう。豊後どの、御供御警固御苦労に存ずる。駕籠行かっしゃい」
 爆発するような主水之介の声に、溝口豊後守も、取り巻いてひたひたと随っている十人の影も一様に歯ぎしりしたらしかったが、物を言うべき物が駕籠にかかっていたのでは手の出しようがないのです。
 駕籠は宵の口の大伝馬町へかかって、四丁め、三丁め、二丁めと本町を常盤橋御門めざしてのぼりました。
 その角。
 右は辻番所だが、左は炭部屋、矢来《やらい》廻の竹囲《たけがこ》いがあって、中は刺客の忍ぶには屈強な場所です。両国で仕損じたら、ここでという計画だったらしく、ちらりとまた二ツ、その竹囲いの中から黒い影がのぞきました。
 やはり短い銃《つつ》です。
 しかし、のぞくと一緒にうしろの駕籠から、豊後のうろたえた手がまたさッと出て、慌てふためきながら制しました。
「わッははは。御定紋なるかな、御紋なるかなじゃ。馬鹿の顔が見たいのう。豊後どの、御念の入ったる御警固御苦労に存ずる。駕籠行かっしゃい」
 崩れるような爆笑を打ちのせて、主水之介の乗物はゆさゆさと常盤橋御門へさしかかりました。
 ここを通ればもう御城内。下馬止めまでずっと安全でした。
 だが、それにしても気にかかるのは、豊後のこの計らいです。闇から闇へ片付けて、事の黒白を永遠に秘密の中に葬ろうとしたこの計らいが、豊後自身の方策から出ているか、それとも腰本治右が手を廻し
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