た。
 今のさき、脇差をつきつけて、割腹自裁を迫ったばかりなのです。死なぬと言ったら、俄かに将軍家お直裁《じきさい》に戦法を替えて来たのです。対手は智恵豊後と評判の智恵者なのだ。登城お直裁を仰ぐとは元より口実、裏には恐るべき智恵箱の用意があるに違いない。第一、自決を迫ったことからしてが、正邪黒白をうやむやにして、闇から闇へ葬り去ろうとした策だったに相違ないのです。今もなおやはり豊後の胸の奥底深くには、恐るべきその魂胆が動いているに相違ないのです。
 さればこそ、十名もの放し鳥をずらりと身辺へ配置して、隙あらばと狙っているに違いないのでした。
「名うての智恵者も老いましたのう。京弥!」
 それならばそのようにこちらにも策があるのです。主水之介は打ち笑みながらふりかえると、襖のあわいから血走った目をのぞかせて、いざとなったら躍り出そうと身構えていた京弥へ静かに命じました。
「月代《さかやき》じゃ。用意せい」
「ではあの、御登城なさるのでござりまするか!」
「そうじゃ。早乙女主水之介、死にとうないからのう、上様、おじきじきのお裁きとは願うてもないことじゃ。早う盥《たらい》の用意せい」
「でも、対手は御愛妾の縁につながる治右衛門、泣く児と地頭には勝たれぬとの喩《たと》えもござります。いかほど御潔白でござりましょうとも、白を黒と言いくるめられて、お身のあかし立ちませぬ節は何と遊ばすお覚悟でござります」
「潔白なるもの、潔白に通らぬ世の中ならば、こちらであの世へ逃げ出すだけのことよ。上様お待ちかねじゃ。早うせい」
 悠然と坐り直して、その首を京弥の前へさしのべました。
 しかし寸毫《すんごう》の油断もない。襲って来たら開いて一|閃《せん》、抜く手も見せじと大刀膝わきに引きよせておいて、じろりと十人の目の動きを窺いました。
 京弥もまた月代を剃《あた》りながら油断がないのです。
「おのびでござりまするな」
「そちと比べてどうじゃ」
「手前の何とでござります」
「鼻毛とよ」
「御笑談ばっかり、おいたを仰せ遊ばしますると傷がつきまするぞ」
 ジャイ、ジャイと剃《あた》りながらも、京弥の目はたえず十人の身辺へそそがれました。
 ひと剃《そ》り、ふた剃りと、青月代に変るにつれて、江戸に名代の眉間傷も次第にくっきりと浮き上がりました。
 したたるその傷!
 やがて月代は青ざおと冴《さ》え返って、三日ノ月型にくっきり浮き上がった傷がふるいつきたいようです。
「いちだんとお見事でござりまするな。京弥、惚れ惚れといたしました」
「では、惚れるか」
「またそんな御笑談ばっかり。お門違いでござります」
「ぬかしたな。こいつめ、つねるぞ。菊! 菊! 菊路はおらぬか。京弥め、憎い奴じゃ、兄に惚れいと言うたら御門違いじゃと申したぞ。罰じゃ。手伝うて早う着物を着せい」
 眼中、人なきごとき振舞いなのです。
 腹立たしげに豊後守が睨みつけていたが、どうしようもない。無役ながら千二百石、かりそめにも直参旗本の列につながる者が、登城、上様御前へ罷り出ようというに当って、月代を浄めるのは当り前のこと、せき立てたくとも文句の言いようがないとみえて、立ったり坐ったり、じれじれとしながら待ちうけているのを、主水之介がまた悠然と構えているのです。
「馬子にも衣裳という奴じゃ。あの妓《こ》、この妓があれば見せたいのう。駕籠じゃ。支度せい」
「お供は、京弥が――」
「いいや。いらぬ。その代りちと変った供をつれて参ろう。土蔵へ行けばある筈じゃ。馬の胸前《むなまえ》持って参って、駕籠につけい」
「胸前?」
「馬の前飾りじゃ。菊、存じておろう。鎧櫃《よろいびつ》と一緒に置いてある筈じゃ。大切《だいじ》な品ゆえ粗相あってはならぬぞ」
 意外な命を与えました。
 胸前《むなまえ》とは戦場往来、軍馬の胸に飾る前飾りです。品も不思議なら、不思議なその品を、いぶかしいことには馬ならぬ駕籠につけいと言うのでした。しかもそれを供にするというのです。
 怪しみながら躊《ため》らっているのを、
「持って参らば分る筈じゃ。早うせい」
 促して、ふたりに土蔵から運ばせました。
 見事な桐の箱です。
 表には墨の香も匂やかな筆の跡がある。

「拝領。胸前。早乙女家」

  重々しいそういう文字でした。
 只の品ではない。八万騎旗本が本来の面目使命は、一朝有事の際に、上将軍家のお旗本を守り固めるのがその本務です。井伊、本多、酒井、榊原の四天王は別格として、神君以来その八万騎中に、お影組というのが百騎ある。お影組とは即ち、将軍家お身代りとなるべき影武者なのです。兵家戦場の往来は、降るときもある、照る時もある、定めがたい空のように、勝ってみるまでは敗けて逃げる場合も覚悟しておかなければならないのです。お影組は即ちその時の用
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