からも使者らしい使者は来る気勢《けはい》もないのでした。
 水の里本所は水に陽が沈んで、やがて訪れたのは夕ぐれです。高枕したまま起きようともしない主水之介の居間にもその夕やみが忍びよったとき、突然、玄関先で憚《はば》るように訪《おと》のうた声がある。
 ハッとなって京弥が出ていったと思うまもなく、青ざめて帰って来ると主水之介をゆり起しました。
「御前! 御前! ……。参りましたぞ!」
「来たか」
「来たかではござりませぬ。大目付様、おしのびで参りましたぞ」
「大目付にも多勢《おおぜい》ある。誰じゃ」
「溝口豊後守様《みぞぐちぶんごのかみさま》でござります」
「ほほう、豊後とのう。智恵者が参ったな」
 主水之介はようやくに起き上がりました。――大目付は芙蓉《ふよう》の間詰、禄は三千石、相役四人ともに旗本ばかりで、時には老中の耳目となり、時にはまた、将軍家の耳目となり、大名旗本の行状素行《ぎょうじょうそこう》にわたる事から、公儀お政治向き百般の事に目を光らす目付見張りの監察《かんさつ》の役目でした。その四人の中でも溝口豊後守と言えば、世にきこえた智恵者なのです。
「ここへ通せ」
 さすがにひと膝退って主水之介は下座。上座に直した褥《しとね》のうえに導かれて来たのは、目の底に静かな光りの見える微行《しのび》姿の豊後守でした。
「ようこそ……」
 目礼とともに見迎えた主水之介のその目の前へ、黙って豊後守はいきなり脇差しをつきつけると、声が静かです。
「これをお貸し申そう。早乙女主水之介の最期を飾らっしゃい」
「アハハ……。なるほど、ゆうべの膝枕の借財をお取り立てに参られましたか。なかなかよい膝で御座った。まさにひと膝五千石、切腹せいとの謎で御座るかな」
「その口が憎い。ひと膝五千石とは何ごとでござる。江戸八百万石、お上が御寵愛のお膝じゃ。言うも恐れ多い不義密通、上のお耳にもお這入りで御座るぞ。表沙汰とならばお身は申すに及はず、お紋の方のお名にもかかわろうと思うて、溝口豊後、かく密々に自刄《じじん》すすめに参ったのじゃ。わるうは計らぬわ。いさぎよう切腹さっしゃい」
「アハハハ。なるほど、五千石はちと安う御座ったか。いかさま八百万石の御膝じゃ。そうすればゆうべの片膝は四百万石で御座ったのう。道理でふくよかなぬくみの工合、世にえがたき珍品で御座りましたわい」
 恐るる色もないのです。ピカリと眉間傷光らして、静かに言葉を返しました。
「主水之介、もし切腹せぬと申さば?」
「知れたことじゃ。今宵にもお上よりお差し紙が参るは必定《ひつじょう》、お手討、禄は没収、家名は断絶で御座るぞ」
「智恵者に似合わぬことを申しますのう。もしもお紋の方、父治右衛門と腹を併《あわ》せて、知りつつ企らんだ不義ならば何と召さる。かような膳立てになろうとは承知のうえでこの主水之介、わざとお借り申した膝枕じゃ。どうあっても切腹せぬと申さば何と召さる!」
「さようかせぬか……」
 突然です。静かに見えた豊後守の目の底に冷たい光りがさッと走ったかと見えるや、何か第二段の用意が出来ているとみえて、そのまますうと玄関口へ消えました。
 刹那。異様な気勢《けはい》です。静まり返っていたその玄関のそとで、不意にざわざわと只ならぬざわめきがあがりました。

       一二

 ざわ、ざわ、ざわと、異様な音は、玄関口から座敷の中へ、次第に高まって近づきました。
 只の音ではない。
 まさしくそれは殺気を帯びた人の足音なのです。
 人数もまた少ない数ではない。
 たしかに八九名近い足音なのです。
 しかし主水之介は自若としたままでした。ぴかり、ぴかりと眉間傷を光らして、静かなること林のごとくに打ち笑みながら待ちうけているところへ、案の定、七人、八人、九人、十人近い人の顔が現れました。
 羽織、袴、申し合せたような黒いろずくめの長刀を握りしめて、鯉口《こいぐち》こそ切ってはいなかったが、その目には、その顔のうちには、歴然たる殺気がほの見えました。
 しかも悉《ことごと》く年が若い。
 察するところ、大目付溝口豊後守が飼い馴らしている腕ききの家臣ばかりらしいのです。
 その十人が右に五人、左に五人、声のない人のように気味わるく押し黙りながら片膝立て、ずらりと主水之介の両わきへ並んだところへ、当の溝口豊後守がけわしく目を光らしながら進みよって立ちはだかると、突然、冷たくきめつけるように促しました。
「立ちませい!」
「立てとは?」
「何と言い張ろうとも、不倫の罪はもはや逃がれがたい。今より登城して将軍家御じきじきのお裁きを仰ぐのじゃ。豊後、大目付の職権以って申し付くる。早々に立ちませい!」
「ほほ、なるほど、急に空模様が変りましたのう」
 冷たい笑いが、さッと主水之介のおもてをよぎり通りまし
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