影も何の影もない。
うちの中もしいんと静まり返っているのです。
仔細にのぞいてみると、奥の座敷あたりに灯の影がある。
退屈男はどんどんと上がりました。
梅甫と小芳とがその灯の蔭で抱き合って、びっくりしながら、青ざめつ、目をみはりつつ、ふるえているのです。
「どうした!」
「………?」
「何をふるえているのじゃ。昼間小屋で会うた主水之介ぞよ。どうしたのじゃ」
「あの、ほ、ほんとに、傷《きず》のお殿様でござりますか!」
「おかしなことを申すのう、主水之介はふたりない。兄が駈けこんで来たゆえ参ったのじゃ。何を怕《こわ》がっているぞよ」
「兄!……。あの、十五郎がいったんでござりまするか!」
「そうよ。ほんの今深川まで血を浴びて身共を追っかけて来たゆえ、眉間傷の供養にやって来たのじゃ。何をそのようにびっくりしているのじゃ」
「いいえ! そ、そんな馬鹿なことはありませぬ! ある筈がござりませぬ!」
真ッ青になると、梅甫が突然実に意外なことを言ってふるえ出しました。
「あ、兄が、十、十五郎が、深川なぞへ行かれる筈がござりませぬ。兄はほんの今しがた血を浴びて、ふわふわとここへ来たばかりでござります」
「なに!」
「うそではござりませぬ。それも二度、つい今しがたふわふわとその庭先へ来たばかりなんです。髪をみだして、血を浴びて、しょんぼりとそこの暗い庭先へ立って、にらめつけておりましたんで、どうしたんですとおどろいて声をかけたら、俺は喧嘩で斬られて死んだ、気になることが一ツあって行かれるところへも行かれないから、小芳に言いに来たんだ。この屋敷には生き埋めの井戸があってよくない、住んだのが因果だ、祟《たた》りがあるから夫婦別れをしろ、別れないと兄は恨むぞ、斬られたのもみんなおまえらのせいだ、兄が可哀そうなら今別れろ、別れないと何度でも迷って来てやるから、と二度が二度うらめしそうに言って、ふわふわと庭の向うの闇の中へ消えましたんで、ふたりがこの通りふるえていたところなんです……」
不思議きわまる言葉でした。
下総十五郎にふたりある筈はない。深川へ来た十五郎が嘘の十五郎か、こっちへ現れた十五郎が本当の十五郎か、どっちかの十五郎が怪しむべき十五郎なのです。
主水之介の目がキラリと光りました。
「まだ出ると申したか」
「今別れろ、別れると約束するまでは何度でも迷って来るぞと、気味のわるいことを言いのこして、ふわふわと消えていったんでござんす」
言うか言わないかに、ふわりと薄暗い庭先へ浮いた影がある。
血を浴びたおどろ髪の十五郎なのです。
刹那。
「あッ」
と言ってその十五郎がおどろいたのと、
「まてッ」
叫んで主水之介が庭へ飛びおりたのと同時でした。
逃げ走る影をみると、同じ姿の同じ血を浴びた十五郎がふたりいるのです。
「たわけッ。化けたかッ」
声と一緒に泳いで五尺、主水之介の手が手馴れの一刀にかかったと見るまに、見事な一斬り、五千両が程の涼しさでした。すういと薙《な》いでおいて、逃げのびようとしていた今ひとりの十五郎へ躍りかかると、
「面体みせい!」
襟首押えて引きすえた下から、声がもうふるえているのです。
「相すみませぬ。十、十五郎ではござりませぬ。お見のがし願わしゅうござります。手、手前でござります」
「控えろッ。どこの手前かその手前を見るのじゃ。梅甫、灯《あか》りを持てい!」
灯りをさしつけて見しらべると、傷なぞある筈はない。血は塗《ぬ》った血、おろか千万なこのつくり十五郎は、まぎれもなく昼間|森田座《こびきちょう》で見かけたあの黒鍬組の小侍のひとりなのです。
「たわけがッ。傷の早乙女主水之介を何と心得おるぞ。腰本治右の差図か!」
「そ、そ、そうなんでござります。おまえらふたり、十五郎に化けて、かようかように梅甫夫婦を脅《おど》して来いと言われましたゆえ、迷って出たのじゃ、今すぐ別れろと、うまうまひと狂言書いたのでござります」
「夜な夜な玄関先の寒竹の繁みの中とやらへも、白い影が出るとか申したが、それもおまえらの仕業《しわざ》か」
「相済みませぬ。あそこの生き埋めの井戸というのがあるのを幸い、脅しつけろ、と腰本様がおっしゃりましたゆえ、変化《へんげ》の真似をしたのでござります……」
「たわけものめがッ。その方共も黒鍬組のはしくれであろう。下賤者ではあろうとも黒鍬組はとにもかくにも御直参の御家人じゃ。他愛もない幽霊の真似なぞするとは何のことかッ。腰本治右に申すことがある。少し痛いが待て。――梅甫、料紙《りょうし》をこれへ持参せい」
足で踏んまえながら、さし出した筆と紙を手にとると、主水之介はさらさらと書きしたためました。
「早乙女主水之介、傷供養に喧嘩を買った。いつでも退屈払いに参ってつかわす。汝、お手かけ馬の
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