結果のごとく厳罰に問われることになったのでした。だが、名門名家の末というものは、こういう時になると家の系図が存外に物を言うから不思議です。これが普通だったら秩禄没収《ちつろくぼっしゅう》、御家は改易《かいえき》、その身は勿論切腹と思われたのに、竜造寺家末流という由緒から名跡《みょうせき》と徳川家客分の待遇が物を言って、幸運にも長門守は罪一等を減ぜられた上、即日城代の御役は御免、二万石を八千石に減額、九十日間の謹慎という寛大すぎる寛大な裁断が下ったのでした。さればこそ、勿論長門守は、江戸大公儀の慈悲あるその処断を感泣しないまでも内心喜んで御受けしただろうと思われたのに、変り者と言えば変り者、慷慨家《こうがいか》と言えば一種気骨に富んだ慷慨家です。処罰をうけるや長門守は却ってこれに痛烈な批難を放ったのでした。
「明盲目共《あきめくらども》にも程がある。この御代泰平に軍用金を貯蔵することからしてが、死金《しにがね》を護るも同然の愚かな業《わざ》じゃ。活かすべき時にこれを生かして費うと、後生大事に死金を護ると、いずれが正しき御政道か、それしきのけじめつかいで何とするか。徳川の御代はすでに万代不
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