て、実にいい味のする旅情です。――退屈男が何をおいても、先ず第一にこの吉原へやって来たのも、その寂しい旅情にしみじみと浸《ひた》りたいために違いないのでした。
 京町、江戸町、揚屋町と、曲輪五丁町の隅から隅をぐるりと廻って、そうして久方ぶりに長割下水へ帰りついたのは、木枯に星のまばたく五ツ半……。
「ま! お早うござりました。御帰り遊ばしませ」
 京弥と、兄主水之介の側にさえ居ったら、ほかにもう望みはないと言わぬばかりに、いそいそと迎えて手をついたのは妹菊路です。
「どうでござりました。吉原とやらは面白うござりましたか」
「それほどでもない。菊!」
「あい。何でござります」
「兄はまたどこぞ旅に出とうなった。江戸は思うたよりも寂しい。いや、思うたよりも退屈なところよな」
「ま! お声までが悲しそうに! ――どうしたらよいのでござりましょう。どうしたら、どうしたらそれがお癒《なお》り遊ばしますのでござりましょう」
 言っているとき、慌《あわ》ただしく表門を叩いて、何ごとかうろたえながら訴える声が伝わりました。
「お願いでごぜえます! お開け下さいまし! 早乙女のお殿様が御帰りときいて駈けつけました者でごぜえます! おあけ下せえまし! お願いでござります! お願いでござります!」

       二

「京弥! 京弥!」
 きくや同時に退屈男の声は、俄然冴え渡りました。冴えたも当然、帰って来たほんのすぐからもう退屈の虫が萌《きざ》して、旅に出ようかとさえ言ったその矢先に、何やら容易ならん声がしたのです。
「京弥! 京弥! うろたえた声が表に致すぞ。何ぞ火急の用ある者と見える。仲間《ちゅうげん》共に言いつけて、早う開けさせて見い」
「はッ。只今もう開けに参りましたようでござります」
 事実もう出ていったと見えて、程たたぬまに庭先へ導かれて来たのは、眼《がん》の配りにひと癖もふた癖もありげな胆《たん》の坐りの見える町奴風《まちやっこふう》の中年男と、その妻女であるか、ぞれとも知り合いの者ででもあるか、江戸好みにすっきりと垢ぬけのした町家有ちの若新造でした。
「ほほう。見たことも会うたこともない者共よ喃。苦しゅうないぞ、縁へ上がって楽にせい」
「いえ、もう、御殿様に御目通りさえ叶いますれば結構でござります。ようよう御会い申すことが出来まして、ほッと致しました。御庭先でも勿体ない位でござります」
 容子ありげな町奴の不審な言葉に、退屈男の向う傷はピカリと光りました。
「異な事を申す奴よ喃。先程も表で怒鳴ったのをきけば、身共が帰って参ったと知ったゆえ駈けつけて来たとやら申しておったが、何ぞ用でもあって待っておったか」
「お待ち申していた段じゃござんせぬ。江戸へ御帰りなれば何をおいても吉原へお越し遊ばすだろうと存じまして、今日はおいでか明日はお越しかと、もうこの半月あまり、毎夜々々五丁町で御待ち申していたんでごぜえます。今晩もこちらのお絹さんと、――こちらはあッしの知り合いの棟梁《とうりょう》の御内儀さんでごぜえますが、このお絹さんと二人していつもの通り曲輪へ参りましたところ、うれしいことにお殿様が旅から御帰りなせえまして、今しがた、ひと足違げえに御屋敷へ御引き揚げ遊ばしましたとききましたゆえ、飛び立つ思いで早速御願げえに参ったのでごぜえます」
「毎夜吉原で待っておったとは、ききずてならぬ事を申す奴よ喃。飛び立つ思いで願いに参ったとやら申す仔細は一体どんなことじゃ」
「どうもこうもござんせぬ。あッし共|風情《ふぜい》の端《は》ッ葉《ぱ》者《もの》じゃどうにも手に負えねえことが出来ましたんで、ぜひにも殿様にお力をお借りせずばと、ぶしつけも顧みずこうしてお願いに参ったのでごぜえます」
「なに! 主水之介の力が借りたいとのう。ほほう、左様か。相変らず江戸はちと泰平すぎて、傷供養《きずくよう》らしい傷供養もしみじみと出来そうもないゆえ、事のついでに今宵にもまたどこぞ長旅へ泳ぎ出そうかと存じておったが、どうやら話しの口裏《くちうら》を察するに、万更でもなさそうじゃな」
「万更どころじゃねえんですよ。あッしゃいってえお殿様が黙ってこの江戸を売ったッてえことが気に入らねえんです。御免なせえましよ。お初にお目にかかって、ガラッ八のことを申しあげて相済みませんが、こいつアあッしの気性だから、どうぞ御勘弁下せえまし、そもそもを言やア御殿様は、傷の御前で名を御売り遊ばした江戸の御名物でいらッしゃるんだ。その江戸名物のお殿様が、御自身はどういう御気持でのことか知らねえが、あッしとら殿様贔屓の江戸ッ児に何のひとことも御言葉を残さねえで、ぶらりとどこかへお姿を消してしまうなんてえことが、でえ一よくねえんですよ。何を言っても江戸は日本一御繁昌の御膝元なんだからね。こちらに
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