共はここで消えて失くなるぞ」
「何の匂いでござんす? 火事や江戸の名物だ。ジャンと来た奴なら今に始まッたこッちゃござんせぬ。年中|焦《こ》げ臭せえですよ」
「匂い違いじゃ。吉原の灯《あか》りの匂いよ。名犬はよく十里を隔てて主人の匂いを嗅ぎ知る。早乙女主水之介夢の国にあって吉原の灯りの匂いを知るという奴じゃ。何はともあれ江戸へ帰ったとあらばな、ほかのところはともかく、曲輪《くるわ》五丁町だけへは挨拶せぬと、眉間傷もおむずかり遊ばすと言うものじゃ。――菊! 別れるぞ。早う屋敷へ帰って、京弥とママゴトでもせい」
「ま! 変ったことばかりなさる御兄様! おひとりでは御寂しいゆえに御出かけ遊ばしますなら、わたくしがどのようにでも御対手《おあいて》致します。久方ぶりでござりますもの、今宵だけはこのまま御屋敷へ御帰り遊ばしましたがいいではござりませぬか」
「真平《まっぴら》じゃ。うっかりそちの口車なぞに乗ったら、この兄の身体、骨と皮ばかりになろうわ。さぞかし手きびしく当てつけることであろうからな。わッはは。邪魔な独り者には吉原でよい妓《こ》が待っておるとよ。京弥! 程よく可愛がってつかわせよ。――流水心なく風また寒し。遙かに華街《かがい》の灯りを望んでわが胸独り寥々……」
微吟《びぎん》しながら行くうしろ影の淋しさ。主水之介またつねにわびしく寂しい男です。――だが、行きついたその吉原は、灯影《ほかげ》に艶《なま》めかしい口説《くぜつ》の花が咲いて、人の足、脂粉の香り、見るからに浮き浮きと気も浮き立つような華やかさでした。
「九重《ここのえ》さん」
「何ざます?」
「御大尽がもうさき程からやかましいことをおっしゃってお待ち兼ねですよ」
「いやらしい。そう言ってくんなんし。わちきにも真夫《まぶ》のひとりや二人はござんす。ゆっくり会うてから参りますと、そう言ってくんなんし」
「ちえッ。のぼせていやがらあ」
聞いて、つッかけ草履の江戸ッ児がっているのが、うしろの連れをふりかえりながら悲憤糠慨《ひふんこうがい》して言った。
「きいたか。金の字! 真夫だとよ。あの御面相できいて呆れらあ。当節の女はつけ上がっていけねえよ」
その出会いがしらに、にょっきりとそこの町角から降って湧いたように姿を見せたは、傷の早乙女主水之介です。ちらりと認めてつッかけ草履がおどろいたように言いました。
「おい。金的! 見ねえ! 見ねえ! 長割下水《ながわりげすい》のお殿様だ。傷の御前様が御帰りだぜ」
「違げえねえ。相変らずのっしのっしと頼もしい恰好をしていらっしゃるな。京へ上ったとかエゾへ下ったとかいろいろの噂があったが、もう御帰りになったと見えるな。六月前までや毎晩ここでお目にかかった御殿様だ。急に五丁町が活気づいて来やがったね」
言う下から、あちらの街々、こちらの街々に、勃然《ぼつぜん》として活気づいたその声が揚がりました。
「ま! 見なんし! 見なんし! 豆菊《まめぎく》さん! 蝶々さん! お半さん! 殿様が御帰りでござんす! 早乙女の御前様が御帰りでありんすよ!」
「どこに! どこに! ま!……」
「やっぱりすうっと胸のすくような傷痕をしてでござんすな。今宵からまたみなさん気の揉める方がお出来でありんしょう。――わちきも水がほしゅうなりました」
呼ぶ声、言う声、いずれもひそかな恋を隠した渇仰の声です。――また無理もない。旅に出る前までは、まる三カ年間、夜ごと宵々ごとに五丁町のこうしたそぞろ歩きを欠かしたことのない主水之介でした。その早乙女の退屈男が半年ぶりにふうわりとまた天降《あまくだ》って来たのです。しかも、あの三日月型の傷痕は、長の旅風《たびかぜ》に洗われて愈々凄艶に冴えまさり、迫らず急がず、颯爽として行く姿の水際立った程のよさ! ――犬は尾を巻いてこそこそと逃げ隠れ、風も威風に打たれたものか、ピタリと鳴りを静めて、まばたく灯影も主水之介ゆえに、まぶしく輝き出したのではないかと思われるようなすばらしさでしたから、気の揉める者も出来るであろうし、胸が騒いで、咽喉《のど》が乾いて、急に水のほしくなった者が二人や三人でたのは当り前でした。
しかし、当の主水之介は只黙々として、心の髄《ずい》までがいかにもしんしんと寂しそうでした。
覗くのでもない。
登《あが》るのでもない。
漫然として当もなく只ぶらぶらと灯影の下を縫って行くのです。――さながらにその心は、ひとりわびしくしみじみと旅情をでも味わっているかのようでした。いや、旅情です。まさしくそれは旅情です。人影もない知らない土地をぶらぶらするのもよい味のする旅情だが、ざわめく雑沓の人の中を、自分ひとりのけ者となりながら、当もなくぶらぶらと歩いて行くのも、悲しくわびしく何とはなしに甘やかしい涙がほろりと湧い
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