かみ》様でごぜえます」
「なに! 竜造寺殿が糸を引いておるとのう。これはまた意外な人の名が出たものじゃな。どうしてまたそれが相分った。何ぞたしかな証拠があるか」
「証拠はねえんです。あったらまた御上でも棄てちゃおきますまいが、乾児《こぶん》の若けえ者達の話によると、竜造寺の殿様が二三度あの道場へこっそり御這入りなすったところをたしかに見かけた、と言うんでごぜえます。釜淵番五郎が大阪者だというのも気になるが、竜造寺のお殿様もまたその大阪とは因縁の深けえお方でごぜえますから、それこれを思い合わせて考えまするに、どうも何か黒幕で糸を操っていらッしゃるんじゃねえかと思うんでごぜえます。それゆえ、万ガ一の場合のことをお考え遊ばして、御殿様の御仲間のお旗本衆でも二三人御連れなすったらいかがでごぜえます」
「いかさま喃。竜造寺殿が蔭におるとはちと大物じゃな」
 主水之介の面は、キリキリと俄かに引き締まりました。無理もない。話のその竜造寺長門守こそは、実に、人も知る戦国の頃のあの名将竜造寺家の流れを汲んだ、当時問題の人だったからです。城持ちの諸侯ではなかったが、名将の血を享《う》けた後裔《こうえい》というところから、捨て扶持《ぶち》二万石を与えられて、特に客分としての待遇をうけている特別扱いの一家でした。それゆえにこそ、名君を以て任ずる将軍綱吉公は、この名門の後裔を世に出そうという配慮から、異数の抜擢《ばってき》をして問題の人長門守を大阪城代に任じたのが前々年の暮でした。然るに、この長門守が少しく常人でなかったが為に、はしなくもここに問題が起きたと言うのは、即ち峠なし権次が今言った大阪御城内の分銅流し騒動です。事の起ったのはついこの年の春でした。大阪冬の陣と共に豊家《ほうけ》はあの通り悲しい没落を遂げて、世に大阪城の竹流し分銅と称されてやかましかった軍用金のうち、手づかずにまるまる徳川家の手中に帰したのは、実に六百万両という巨額でした。徳川領の関東八カ国だけを敵に廻したら裕《ゆう》に二十カ年、関ガ原以東の諸大名を対手にしたら八カ年、六十余州すべてを敵に引きうけても、結構三カ年間は支え得られると称された程の大軍用金です。さればこそ、徳川家もまた大阪落城と共にこれを我がものとするや、豊家同様にこの竹流し分銅六百万両を以て、一朝有事の際の貴重なる軍用金として秘蔵せしめ、大阪城を預かる城代
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