に対《むか》っても、これを厳重に保管せしめたことは言うまでもないこと、年に一度宛、分銅改めの密使すらもわざわざ江戸から送って、つねに城内第一の貴品の取扱いを命じておいたものなのでした。だのに、人の信仰の度を越え、その常軌を逸したものは、普通人が持つ心の物尺《ものさし》を以てしては計ることの出来ないものに違いないのです。問題の人竜造寺長門守がそれでした。ほかに批難すべきところはなかったが、極度の天台宗信者で、京都|叡山《えいざん》の延暦寺《えんりゃくじ》を以て海内第一の霊場と独り決めに決めている程、狂的に近い信仰を捧げていたために、大阪城代に就任するや間もなく比叡山から、内密の献金四万両の調達方を頼みこまれて、ついふらふらと御秘蔵第一の竹流し分銅を融通したのが騒動の初まりでした。額は百分の一にも足りない少額であったにしても、御封印厳重な曰《いわ》く付きの竹流し分銅を他へ流通したとあっては、問題の大きくなるのも当り前のことです。しかもあと十日とたたぬ間もなく江戸から御分銅改めの密使が到着することをちゃんと知っていながら、そのうちの何本かを融通したため、騒ぎは愈々大きくなって、長門守は当然の結果のごとく厳罰に問われることになったのでした。だが、名門名家の末というものは、こういう時になると家の系図が存外に物を言うから不思議です。これが普通だったら秩禄没収《ちつろくぼっしゅう》、御家は改易《かいえき》、その身は勿論切腹と思われたのに、竜造寺家末流という由緒から名跡《みょうせき》と徳川家客分の待遇が物を言って、幸運にも長門守は罪一等を減ぜられた上、即日城代の御役は御免、二万石を八千石に減額、九十日間の謹慎という寛大すぎる寛大な裁断が下ったのでした。さればこそ、勿論長門守は、江戸大公儀の慈悲あるその処断を感泣しないまでも内心喜んで御受けしただろうと思われたのに、変り者と言えば変り者、慷慨家《こうがいか》と言えば一種気骨に富んだ慷慨家です。処罰をうけるや長門守は却ってこれに痛烈な批難を放ったのでした。
「明盲目共《あきめくらども》にも程がある。この御代泰平に軍用金を貯蔵することからしてが、死金《しにがね》を護るも同然の愚かな業《わざ》じゃ。活かすべき時にこれを生かして費うと、後生大事に死金を護ると、いずれが正しき御政道か、それしきのけじめつかいで何とするか。徳川の御代はすでに万代不
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