筆で、墨痕《ぼっこん》淋漓《りんり》と自ら退屈男の書きしたためたのは実に次のごとき大文字です。
「直参旗本早乙女主水之介様御宿」
「ウワハハハ、わが文字ながらなかなかに見事よ喃。これならは陪臣共もひと泡吹こうぞ。遠慮は要らぬ。なるべくひと目にかかるような店先へ早う立てい」
おどろくかと思いのほかに謎の番頭は、にたりと意味ありげな微笑をのこすと、洒然《しゃぜん》としてかつぎ去りました。
二
しかし、来ないのです。
来たら退屈払いにひと泡吹かしてやろうと、朱緞子《しゅどんす》の大座布団にふっくらと陣取りながら今か今かと待っていたのに、どうしたことか宿改めの係り役人達は、待てど暮らせどそれらしい者の姿すらも見せないのです。しかし、その夜ばかりではなく翌朝になっても、やがてかれこれもうお午近くになっても、不思議なことに退屈男の、手ぐすね引いているその上段の間を訪れた者は皆無でした。
「ほほう、ちと奇態じゃな。亭主! 亭主! いや番頭! 番頭!」
「………」
「番頭と申すにきこえぬか」
「………」
「あい……」
やさしく消え入るように答えてそこに三ツ指ついたのは、前夜のあのいぶかしい若者ならで、ちまちまッとした小女《こおんな》でした。
「そちではない。ゆうべの番頭はどこへいった」
「あの……」
「怕《こわ》がらいでもよい。番頭に用があるのじゃ! どこへ参った」
「ゆうべからずッとどこぞへ出かけまして、まだ帰りませぬ」
「なにッ、……異なことを申すな。あの男、時折夜遊びでも致すのか」
「いえあの、この頃になりまして、どこへ参りますやら、ちょくちょく家をあけまするようでござります」
「ほほう喃。だんだんと不思議なことが重なって参ったようじゃな。いや、よいわよいわ。掛り役人共とやらも番頭も何を致しおるか存ぜぬが、長引くだけにいっそ楽しみじゃ。ならば一つ身共も悪戯《いたずら》してつかわそうぞ。ゆうべのあの看板を今一度ここへはずして参れ」
小女《こおんな》に持参させると、前夜自ら筆をとりながら、直参旗本早乙女主水之介様御宿と書きしたためたその隣りへもっていって、墨痕あざやかに書き加えた文句というものが、また大胆というか、不敵というか、実になんとも言いようがない程に痛快至極でした。
「喧嘩口論、悪人成敗、命ノヤリトリ、白刄《シラハ》クグリ、ヨロズ退屈凌ギトナルベキ荒事《アラゴト》ナラバ何ナリトモ御相談ニ応ズベク候間、遠慮ノウ当館《トウヤカタ》ヘ申出デ可然候《シカルベクソロ》。但シ金銭謝礼ハ一切無用之事」
「わははは。これでよいこれでよい。この大網ならば夕刻あたりまでに、小鰯の一匹位かかろうわい。そのまにゆるゆる御城下見物でも致して参ろうぞ。女! 遠慮のうこの看板、元のところへ立て掛けい」
言いすてておくと、大刀をずっしりと腰にしながら、ふらりふらりと城下の街に現れました。
秋!……
秋!……
そぞろ、悲しい秋の声! 秋の色! そうして秋の心!
颯々として背を吹きなでるその初秋のわびしい街風をあびながら、風来坊の退屈男は飄々乎《ひょうひょうこ》としてどこというあてもなくさ迷いました。
人が通る……。
馬が通る……。
犬と駕籠が連れ立って駈けすぎました。何の不思議もないことでしたが、しかし通りすぎていった人の顔に、通りすぎていった馬の蹄に、犬にも駕籠にも沈鬱《ちんうつ》と言うか、緊張と言うか、言いがたい重苦しさが見えるのです。
――嵐の前の不気味な静寂!
――危機を孕《はら》んだ暗い殺気!
いや静寂ばかりではない。殺気ばかりでもない、不気味なその静寂の奥に、危機を孕んだ暗いその殺気の奥に、なにかこう物情騒然とした慌ただしさがほの見えました。しかも街全体が、城下全体が、何とはなく変に色めき立って見えるのです。殊に退屈男の目を強く射たものは、町々辻々を固めている物々しい人の影です。何か只ならぬ詮議の者でもがあるらしく、市中警固の係り役人共と覚しき藩士の面々が、いずれも異様な緊張ぶりを示して、あちらに一団、こちらに一隊、行く先の要所々々に佇んでいるのが見えました。
否! 否! そればかりではない。あてもなく廻り廻って、伊達家菩提所の瑞鳳寺前《ずいほうじまえ》までいったとき、ふと気がつくと、たしかに自分の尾行者と覚しき若侍の影がちらりと目につきました。それも三人! 五人! 八人!
「ほほう。味な御供が御警衛じゃな。だんだんと面白うなって参ったわい。――これよ! 人足! 人足と申すに! 苦しゅうない。近う参れッ。供先き許してとらすぞ。近う参れッ」
くるりうしろを向くと、あの眉間疵を冴えやかに光らして、揶揄《やゆ》するように呼びかけました。しかしその刹那! どこかへかくれたか、もういない。
と見えたの
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