退けい。退かせい」
「申すなッ。隠密うける密事があらば格別、何のいわれもないのになにゆえまた謝罪するのじゃ。紊りに入国致した隠密ならば、たとい江戸大公儀の命うけた者とて、斬り棄て成敗勝手の筈じゃわッ。構わぬ、斬ってすてろッ」
「馬鹿者よ喃。まだ分らぬかッ。石の巻のあの不埒は何のための工事じゃ」
「えッ――」
「それみい、叩けばまだまだ埃が出る筈、この早乙女主水之介を鬼にするも仏にするも、その方の胸一つ出方一つじゃ。とくと考えて返答せい」
「………」
「どうじゃ。それにしてもまだ斬ると申すか。主水之介眉間に傷はあるが、由緒も深い五十四郡にたって傷をつけるとは申さぬわッ。探るべき筋《すじ》あったればこそ探りに這入った隠密、斬れば主水之介も鬼になろうぞ。素直に帰さば主水之介も仏になろうぞ。どうじゃ。とくと分別して返答せい」
「…………」
 ぐっと言葉につまって油汗をにじませながら打ち考えていたが、さすが老職年の功です。
「退《ひ》けッ。者共騒ぐではない。早う退けいッ」
「わッははは、そうあろう。そうあろう。素直に退かばこの隠密とても江戸者じゃ。血もあり涙もある上申致そうぞ。さすれば五十四郡も安泰じゃ。早う帰って江戸への謝罪の急使、追い仕立てるよう手配でもさっしゃい。――若者、旅姿してじゃな。身共もそろそろ退屈になりおった。秋の夜道も一興じゃ。ぶらりぶらり参ろうかい」
「は。何から何まで忝のうござります」
 歩き出そうとしたのを、ふと、しかし退屈男は気がついて呼びとめました。
「まてッ。まてまて。妻女がそこに泣いてじゃ。いたわって江戸まで一緒に道中するよう、早う支度させい」
「いえ!」
 泣き濡れていた面をあげながら、凛《りん》として言ったのはその妻女です。
「いえあの、わたくしはあとへのこります」
「なに? なぜじゃ。末始終離れまじと誓った筈なのに、そなたひとりがあとへ残るとは何としたのじゃ」
「誓って馴れ初《そ》めました仲ではござりますなれど、わたくしは家つきのひとり娘、御領主様の御恩も忘れてはなりませぬ。親共が築きましたる宿の差配もせねばなりませぬ。いいえ、いいえ、祖先の位牌をお守りせねばならぬわたくし、三とせ前に契るときから、江戸隠密とは承知の上で、こうした悲しい別れの日も覚悟の上で思い染め馴れ染めた仲でござります。――俊二郎さま! お身お大切に! 坊は、この児はあ
前へ 次へ
全22ページ中21ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
佐々木 味津三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング