今こそまことに冴え冴えと冴えやかに冴えまさったあの眉間|傷《きず》に、凄婉《せいえん》な笑みを泛《うか》べつつ、ずいと前なるひとりにつめよろうとした刹那! ばたばたと慌ただしげに駈け近づいて来た足音があったかと思うまもなく、矢場の向う横から呼び叫んだ声がありました。
「お願いでござります! 御前様! 早乙女のお殿様! お願いでござります! お願いでござります!」
四
声は誰でもない千種屋のあの青白く冷たい、秋時雨《あきしぐれ》のような若女房でした。女将《おかみ》は、その冷たく青白い面を、恐怖に一層青めながら、愛児を必死に小脇へかかえて、凝然《ぎょうぜん》とおどろき怪しんでいる黒白隊の間をかいくぐりつつ、退屈男のところへ駈け近づくと、おろおろとすがりついて訴えました。
「お願いでござります! 夫が、夫が大変でござります。御力お貸し下されませ! お願いでござります!」
「……!?」
「夫が、夫が、早乙女のお殿様へ早うお伝えせいと申しましたゆえ、おすがりに参ったのでござります。今、只今、宿の表で捕り方に囲まれ、その身も危《あやう》いのでござります。お助け下さりませ。お願いでござります! お願いでござります!」
「捕り方に囲まれおるとは、何としたことじゃ」
「かくしにかくしておりましたなれど、とうとう江戸隠密の素姓《すじょう》が露見したのでござります。宿改め素姓詮議のきびしい中をああしてお殿様にお泊り願うたのは、御眉間傷で早乙女の御前様と知ってからのこと、いいえ、かくしておいた隠密が露見しそうな模様でござりましたゆえ、万一の場合御力にすがろうとお宿を願うたよし申してでござります。ほかならぬ江戸で御評判の御殿様、同じ江戸者のよしみに御助け下さらばしあわせにござります。わたくし共々しあわせにござります」
「よし、相分った! そなたが夫とは、あの客引きの若者じゃな」
「はい。三とせ前からついした縁が契《ちぎり》の初めとなって、かようないとしい子供迄もなした仲でござります。お助け、お助け下さりまするか!」
「眉間傷が夕啼《ゆうな》き致しかかったばかりの時じゃ、参ろうぞ! 参ろうぞ! きいたか! ズウズウ国の端侍共《はざむらいども》ッ、直参旗本早乙女主水之介、ちと久方ぶりに退屈払いしてつかわすぞッ! 来るかッ。馬鹿者共よ喃。ほら! この通りじゃ! よくみい! うぬ
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