もののように、軽い鼾さえも立てていた退屈男が、カッとその両眼を見開きました。手もまた早いのです。膝の下に敷いていた太刀をじりッと引きよせて、気付かれぬように柱の蔭へ身をかくしながら、ほの暗い灯りをたよりに見定めると、年の頃は二十七八の年増でしたが、ひと際白い襟足の美しさ、その横顔の仇っぽさ――。
「化けたなッ」
 退屈男の脳裡にはあの言葉が閃《ひらめ》きました。娘になったかと思うと年増に変り、年増になったかと思えば娘に変ると言った、今朝ほどのあの馬方の言葉です。いや閃いたばかりではない。果然女の行動には怪しい節が見え出しました。虫も殺さぬようにつつましく廊下を向うへ行くと、
「あのもうし、御免なされて下されませ。前に連れがいるのでござります。通らせて下されませ」
 猫なで声で言いながら、日本橋の御講中といった裕福らしい一団がひと塊になってお籠りしているその人込みの間を、わざわざ押し分けながら前へいざり進んで行きました。

       四

 一間! 二間!……
 三間! 五間!……
 十人! 十五人!……
 二十人! 三十人!……
 押し分け押し分けながら、いざりいざって、人込みの奥深く這入っていったかと見えるや途端!
「畜生ッ、スリだッ、スリだッ」
「スリがまぎれ込んでいるぞッ」
「俺もやられたッ、気をつけろッ」
 怪しの女がいざり進んでいったその人込みのうしろから、突如としてけたたましい叫び声が挙ったかと思うと同時で、どッと人々が総立ちになりました。
 しかしその時退屈男は、どじょう殺しの徳利を抱えてまごまごしている三公を置き去りにしながら、すでに早くひらりと身を躍らして、参籠所の前の広庭を経堂裏の方へ、一散に走っている最中でした。人々が騒ぎ出したひと足前にあの怪しの女が、縁から縁を猿《ましら》のように軽々と伝わって、暗い影を曳きながらその経堂裏の方角へ必死に逃げ延びて行く姿を、逸早く認めたからです。――その目の早さ、足の早さ。
 だが、女も早い。よくよく境内の地形と配置に通暁していると見えて、今ひと息のところまで追いかけたかと思うと、するりと右に廻り、廻ったかと思うとまた左へ抜けて、どうやらその目ざしているところは西谷の方角でした。無論見失ったらあとが面倒、途中のどこかの支院の中に逃げ込まれても同様にあとが面倒なのです。只一つ仕止める方法は手裏剣でした。足一本傷つけるのを覚悟で、追いちぢまったところを狙い打ちに打ち放ったら、手元に狂いもなく仕止められるに違いないが、兎にも角にも霊場なのだ。血を見せてはならぬ法《のり》の浄地《じょうち》、教《おしえ》の霊場なのです。――いくたびか抜きかかった小柄《こづか》を押え押えて、必死と黒い影を追いました。今十歩、今十歩と、思われたとき、残念でした。無念でした。女がつつうと横にそれると、西谷檀林《にしだにだんりん》の手前にあった末院行学院《まついんぎょうかくいん》の僧房へさッと身をひるがえしながら逃げ入ったのです。いや、そればかりではない。偶然だったか、それともそういう手筈でもが出来ていたのか、逃げ込んでいった女のあとを追いながら、構わずその庭先へどんどん這入っていった退屈男の眼前へ、ぬッと現れながら両手を拡げんばかりにして立ち塞がったのは、六尺豊かの逞しき荒法師然とした寺僧です。しかも、立ち塞がると同時に、びゅうびゅうと吠えるような声を放ちながら、すさまじい叱咤を浴びせかけました。
「狼藉者《ろうぜきもの》ッ。退れッ、退れッ。霊場を騒がして何ごとじゃッ。退らッしゃいッ」
「申すなッ、無礼であろうぞッ。狼藉者とは何を申すかッ」
 ぴたりそれを一|喝《かつ》しておくと、退屈男は自若《じじゃく》として詰《なじ》りました。
「いらぬ邪魔立て致して、御僧は何者じゃ」
「当行学院御院主、昨秋|来《らい》関東|御巡錫中《ごじゅんしゃくちゅう》の故を以て、その留守を預かる院代《いんだい》玄長《げんちょう》と申す者じゃ。邪魔立て致すとは何を暴言申さるるか、霊地の庭先荒さば仏罰覿面《ぶつばつてきめん》に下り申すぞッ」
「控えさっしゃい。荒してならぬ霊地に怪しき女掏摸めが徘徊《はいかい》致せしところ見届けたればこそ、これまで追い込んで参ったのじゃ。御僧それなる女を匿《かくま》い致す御所存か!」
「なに! 霊地を荒す女掏摸とな。いつ逃げこんだのじゃ。いつそのような者が当院に逃げ込んだと申さるるのじゃ」
「おとぼけ召さるなッ、その衣の袖下かいくぐって逃げ込んだのを、この二つのまなこでとくと見たのじゃ。膝元荒す鼠賊《そぞく》風情《ふぜい》を要らぬ匿い立て致さば、当山御|貫主《かんす》に対しても申し訳なかろうぞ」
「黙らっしゃい。要らぬ匿い立てとは何を申すか! よしんば当院に逃げ込んだがまことであろうと、窮鳥《きゅうちょう》ふところに入る時は猟夫《りょうふ》もこれを殺さずと申す位じゃ。ましてやここは諸縁断絶《しょえんだんぜつ》、罪ある者とてもひとたびあれなる総門より寺内に入らば、いかなる俗法、いかなる俗界の掟《おきて》を以てしても、再び追うことならぬ慈悲の精舎《しょうじゃ》じゃ。衆生済度《しゅじょうさいど》を旨と致すわれら仏弟子が、救いを求めてすがり寄る罪びとを大慈大悲の衣の袖に匿《かくま》うたとて何の不思議がござる。寺領《じりょう》の掟すらも弁えぬめくら武士が、目に角立ててのめくら説法、片腹痛いわッ。とっとと尾ッぽを巻いて帰らっしゃい」
「申したな。それしきの事存ぜぬわれらでないわ。慈悲も済度《さいど》も時と場合によりけりじゃ。普《あまね》き信者が信心こめた献納の祠堂金《きどうきん》は、何物にも替え難い浄財じゃ。それなる替え難い浄財を尊き霊地に於てスリ取った不埒者《ふらちもの》匿《かくま》うことが、何の慈悲じゃッ。何の済度じゃッ。大慈大悲とやらの破れ衣が、通らぬ理屈申して、飽くまでも今の女匿おうと意地張るならば、日之本六十余州政道御意見が道楽の、江戸名物早乙女主水之介が、直参旗本の名にかけて成敗してつかわそうぞ。とっとと案内さっしゃい」
「なにッ、ふふうむ。直参じゃと申さるるか。身延霊場に参って公儀直参が片腹痛いわッ。御身にお直参の格式がござるならば、当山当院には旗本風情に指一本触れさせぬ将軍家|御允許《ごいんきょ》の寺格がござる。詮議無用じゃ、帰らっしゃい! 五万石の寺格を預かる院代玄長、五万石の寺格を以てお断り申すわッ。詮議無用じゃ、帰らっしゃい! 帰らっしゃい!」
「申したか! ウッフフ、とうとう伝家《でんか》の宝刀《ほうとう》を抜きおったな! 今に五万石を小出しにするであろうと待っていたのじゃ。よいよい、信徒を荒し霊地を荒す鼠賊《そぞく》めを、霊地を預かり信徒を預かる院代が匿もうて、五万石の寺格が立つと申さるるならば、久方ぶりに篠崎流の軍学大出し致してつかわそうぞ。あれなる女はいずれへ逃げ落ちようと、御僧がこれを匿もうた上は、御身が詮議の対手じゃ、法華信徒一同になり代って、早乙女主水之介ゆるゆる詮議致してつかわそうわ。今から覚悟しておかっしゃい。いかい御やかましゅうござった」
 無念だが仕方がない。胆《たん》を以て、腕を以て、あの向う傷に物を言わせて、力ずくにこれを押し破ったならば破って破れないことはないが、そのため怪我人を出し、血を見るような事になったら、他の猪勇《ちょゆう》に逸《はや》る旗本なら格別、わが早乙女主水之介には出来ないのです。霊地を穢《けが》すその狼藉《ろうぜき》が、わが退屈男の気性気ッ腑として出来ないのです。ましてや対手は代役ながら、治外の権力ともいうべき俗人不犯の寺格を預かっている寺僧でした。これが僧衣の陰に隠して、飽くまでも匿まおうと言うなら、まことに篠崎流の軍学以外にひと泡吹かする途はない。
「わははは。あの荒法師なかなかに胆《たん》が据っておるわ。いや、よいよい。ずんときびしく退屈払いが出来そうじゃ。ひと工夫致してつかわそうぞ」

       五

 引き揚げてのっそりと帰ろうとしたとき、それ見たことか小気味がいいわと言うように、嘲笑いながら院代玄長が消えていった同じその行学院《ぎょうがくいん》の小暗い庭先から、隠れるようにつつうと走り出して来たのは、黒い小さな人の影です。しかも引き揚げようとしている退屈男の行く手に塞がると、不意に呼びかけました。
「もうし、あの、殿様、お願いでござります」
「なにッ」
 同時にギラリ、退屈男の目が冴え渡りました。頭《つむり》も丸い、僧衣も纏っているのに、まさしく今の、もうしあのと言った声音《こわね》は女だったからです。
 いや、声音ばかりではない。プーンと強く鼻を打ったものは、まぎれもなく若い女性の肌の匂いでした。その上に色がくっきり白い、夜目にもそれと分る程にくっきりと白いのです。のみならずその面《おも》ざしは、円頂僧衣《えんちょうそうい》の姿に変ってこそおれ、初《う》い初いしさ、美しさ、朝程霧の道ではっきり記憶に刻んでおいたあの謎《なぞ》の娘そっくりでした。――刹那! 退屈男の鋭い言葉が飛んだのは言うまでもない。
「不敵な奴めがッ、また化けおったなッ」
「いえ、御勘違いでござります。滅相もござりませぬ。御勘違いでござります」
「申すなッ、娘に変り年増に変り、なかなか正体現さぬと聞いておるわ。自ら飛び出して来たは幸いじゃ。窮命《きゅうめい》してつかわそうぞ。参れッ」
「いえ、人違いでござります。人違いでござります。わたくしそのようなものではござりませぬ。只今悲しい難儀に合うておりますゆえ、お殿様のお力にすがろうと、このように取り紊《みだ》した姿で、お願いに逃げ出して来た者でござります」
「なに? 身共の力にすがりたいとな! 人違いじゃとな! 災難に会うているとな!――はて喃《のう》。そう言えばこの奥へ逃げ失せた女とは少し背が小さいようじゃが、では、今朝ほど坂で会うたあの娘ではないと申すか」
「いえ、あの時のあの者でござります。江戸お旗本のお殿様とも存ぜず、何やら怕《こわ》うござりましたゆえ、ついあの時は逃げましたなれど――」
「逃げたそなたが、またどうしてこのような怪しい尼姿なぞになったのじゃ」
「お力お願いに参りましたのもこの尼姿ゆえ、悲しい災難に会うているのもこの恥ずかしい尼姿ゆえでござります」
「ほほう喃。これはまた急に色模様が変ったな。仔細は何じゃ、一体どうして今朝ほどのあのかわいらしい姿をこんな世捨人に替えたのじゃ」
「それもこれも……」
「それもこれもがいかが致した」
「お恥ずかしいこと、恋ゆえにござります」
「わははは、申したな。申したな、恋ゆえと申したな。いやずんと楽しい話になって参ったわい。身共も恋の話は大好きじゃ。聞こうぞ、聞こうぞ。誰が対手なのじゃ」
「申します。申します。お力におすがり致しますからには何もかも申しますなれど、あのそのような、そのような大きいお声をお出しなさいましては、奥に聞かれるとなりませぬゆえ、もう少しおちいさく……」
「なに! では、そなたの災難も今奥へ消えていった荒法師玄長に関《かかわ》りがござるか」
「あい。ある段ではござりませぬ。あの方様は御院代になったのを幸いにして、いろいろよからぬ事を致しまするお方じゃとの噂にござります。それとも知らずお弟子の念日様《ねんにちさま》に想いをかけましたがわたしの身の因果――、わたくしは岩淵の宿《しゅく》の者でござります。このお山の川の川下の川ほとりに生れた者でござります。ついこの春でござりました。念日様が御弘法旁々《ごぐほうかたがた》御修行のお山の川を下って岩淵の宿へおいでの砌《みぎり》、ついした事から割りない仲となりましたのでござります。なれどもかわいいお方は、いいえ、あの、恋しい念日様は御仏に仕えるおん身体、行末長う添うこともなりませぬお身でござりますゆえ、悲しい思いを致しまして、一度はお別れ致しましたなれど――。お察し下されませ。女子《おなご》が一生一度の命までもと契った恋でござりますもの、夢にもお姿忘れかねて、いろいろと思い迷
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