のかしら――。いえ、どうもおやかましゅうござんした」
行き過ぎるや同時に、退屈男の双のまなこは、キラリ冴え渡りました。ひとりばかりか三人迄も同じ難に会うとは許し難い。
「よほどの凄腕《すごうで》と見ゆるな」
「ええもう、凄腕も凄腕も、この三月ばかりの間に三四十人はやられたんでしょうがね、只の一度も正体はおろか、しッぽも出さねえですよ」
「根じろはどこにあるか存ぜぬか」
「それがさっぱり分らねえんです。お山に巣喰っていると言う者があったり、いいやそうじゃねえ、南部の郷にうろうろしているんだと言う者があったりしていろいろなんだがね、どっちにしてもあッしゃさっきの娘が臭せえと思うんですよ。――きっとあの手でやられたんだ、おいらにさっき道をきいたあの伝でね、袂をくねくねさせながら恥ずかしそうに近よって来るんで、ぼうッとなっているまにスラれちまったんですよ。――それにしても姿の見えねえっていうのは奇態だね、どこへずらかッちまったんだろうな。なにしろ、この霧だからね」
だが、身延の朝霧、馬返しまで、という口碑伝説は、嘘でない。聖日蓮《しょうにちれん》の御遺徳の然らしむるところか、それとも浄魔秘経《じょうまひきょう》、法華経《ほけきょう》の御功徳《ごくどく》が然らしむるところか、谷を埋め、杜《もり》を閉ざしていた深い霧も、お山名代のその馬返しへ近づくに随《したが》って、次第々々に晴れ渡りました。と同時に、遙か向うの胸つくばかりな曲り坂の中途にくっきり黒く浮いて見えたのは、まさしく女の小さな影です。
「よッ、あれだ、あれだ。殿様、あの女がたしかにそうですよ。だが、もうお生憎だ。この馬返しから先は、お供が出来ねえんだから、スリはともかく、お約束のどじょうの方はどうなるんですかね」
「一両遣わそうぞ。もう用はない、どじょうになろうと鰻になろうと勝手にせい」
まことにもう用はない。ひとときの退屈払いには又とない怪しき女の姿が分ったとすれば、見失ってはならないのです。吹替小判をちゃりんと投げ与えておくと、すたすたと大股に追っかけました。
二
二丁、三丁、五丁。――豪儀《ごうき》なものです。全山ウチワ太鼓に埋まっていると見えて、一歩々々と久遠寺《くおんじ》の七|堂伽藍《どうがらん》が近づくに随い、ドンドンドドンコ、ドドンコドンと、一貫三百どうでもよいのあのあやに畏こい法蓮華囃子《ほうれんげばやし》が、谷々に谺《こだま》しながら伝わりました。それと共に女の姿も一歩一歩と近づきました。――と思われた刹那! 気がついたに違いない、俄かに女が急ぎ出したのです。
だが京から三河、三河からこの身延路へと退屈男の健脚は、今はもうスジ金入りでした。
「もし、お女中!」
すいすいと追いついて肩を並べると、ギロリ、目を光らしながら先ずその面を見すくめました。然るに、これがどうもよろしくない。
「ま!……やはりお山へ!」
追いつかれたらもう仕方がないと思ったものか、馴れがましく言いながら嫣然《えんぜん》としてふり向けたその顔は、侮《あなど》り難い美しさなのです。加うるに容易ならぬ風情《ふぜい》がある。匂やかに、恥じらわしげに、ぞっと初《う》い初いしさが泌み入るような風情があるのです。
「ほほうのう」
「は?……」
「いやなに、何でもない。おひとりで御参詣かな」
「あい……。殿様もやはりおひとりで?」
「左様じゃ。そなたもひとり身共もひとり――あの夜のお籠りがついした縁で、といううれしい唄もある位じゃ。どうじゃな、そなたとて二人して、ふた夜三夜しっぽりと参籠致しますかな」
「いいえ、そんなこと、――わたしあの、知りませぬ」
くねりと初い初いしげに身をくねらして、パッと首筋迄も赤らめたあたり、三十年増が化けたものなら正に満点。――然し退屈男の眼はそのまにもキラリキラリと鋭く光りつづけました。掏摸《すり》とった小判はどこに持っているか? 胸の脹らみ、腰の脹らみ? だが、腰にも胸にも成熟した娘の匂やかさはあっても、小判らしい包みはないのです。ないとしたら――あの手をやったのだ。スリ取った金は途中で道のどこかにかくしておいて、ひと目のない時に掘り出す彼等の常套手段を用いているに違いないのです。――退屈男は、軽く微笑しながら掏摸《す》る機会を与えるように、わざと女の側へ近よると、懐中ぽってりふくらんでいる路銀の上をなでさすりながら、誘いの隙の謎をかけました。
「どうも小判はやはり身の毒じゃ。母様がな、きつい日蓮信者ゆえ、ぜひにも寄進せいとおっしゃって二百両程懐中致してまいったが、腹が冷えてなりませぬわい。――ほほう、襟足に可愛らしいウブ毛が沢山生えてじゃな。のう、ほら、この通り、男殺しのウブ毛と言う奴じゃ。折々は剃らぬといけませぬぞ」
「わたし、あの……そんなこと、知りませぬ。ひとりで参ります。どうぞもう側へ寄らないで下さりませ」
だが女は、退屈男の眼の配りの鋭さにうっかり手出しは禁物と警戒したものか、それともそうやって嬌羞《きょうしゅう》を作っておいて油断させようというつもりからか、くねりと身をくねらせながら長い袂で面を覆うと、逃げるように側から離れました。しかもその早いこと、早いこと、燕のように身をひるがえしながら、丁度行きついた境内へ小走りに駈け込むと、ウチワ太鼓の唸りさざめいている間を、あちらにくぐりこちらにくぐりぬけて、あッと思ったそのまに、もうどこかへ姿を消しました。
「わははは、剣道修業の者ならば、先ず免許皆伝以上の心眼《しんがん》じゃ。苦手と看破って逃げおったな。いや、よいよい、この境内へ追い込んでおかば、またお目にかかる事もあろうわい。――こりゃ、坊主、坊主」
勿体らしく衣の袖をかき合せながら、むらがり集《たか》っている講中信者の間をかいくぐって、並び宿坊の方へ境内を急いでいた雛僧を見つけると、まことに言いようもなく鷹揚《おうよう》でした。
「有難く心得ろ。江戸への土産に見物してつかわすぞ。案内せい」
「滅相な、当霊場は見物なぞする所ではござりませぬ。御信心ならばあちらが本堂、こちらが御祖師堂、その手前が参籠所でござります。御勝手になされませ」
剣もほろろにはねつけた気の強さ! 無理もない、聖日蓮《しょうにちれん》が波木井郷《はきいごう》の豪族、波木井実長の勧請《かんじょう》もだし難く、文永十一年この一廓に大法華の教旗をひるがえしてこのかた、弘法済世《ぐほうさいせい》の法燈連綿としてここに四百年、教権の広大もさることながら、江戸宗家を初め紀《き》、尾《び》、水《すい》の御三家が並々ならぬ信仰を寄せているゆえ、将軍家自らが令してこれに法格を与え、貫主《かんす》は即ち十万石の格式、各支院の院主は五万石の格式を与えられているところから、納所《なっしょ》の雛僧の末々に至るまでもかように権を誇っていたのは当り前です。
「ウフフ、こまい奴が十万石を小出しに致しおったな。鰯の頭も神信心、尼になっても女子《おなご》は女子じゃ。見物してならぬと言うなら、遊山致してつかわそうぞ」
あちらへのそり、こちらへのそり、ウチワ太鼓、踊り狂ういやちこき善男善女の間を縫いながら、逃げのびた女やいずこぞとしきりに行方《ゆくえ》を求めました。
だが、いないのです。本堂からお祖師堂。お祖師堂から参籠所、参籠所から位牌堂《いはいどう》、位牌堂から経堂《きょうどう》中堂《ちゅうどう》、つづいて西谷《にしだに》の檀林《だんりん》、そこから北へ芬陀梨峯《ふんだりみね》へ飛んで奥の院、奥の院から御供寮《ごくりょう》、それから大神宮に東照宮三光堂と、七|堂伽藍《どうがらん》支院《しいん》諸堂《しょどう》残らずを隈《くま》なく尋ねたが似通った年頃の詣で女はおびただしくさ迷っていても、さき程のあの怪しき女程のウブ毛も悩ましい逸品は、ひとりもいないのです。
ぐるりと廻って、再び本堂前まで帰って来たとき、
「とうとう見つかった。こんなところにおいででござんしたか、もしえ殿様!」
不意にうしろから呼びかけた声がありました。馬返しで別れた横取りの三公です。プーンと酒が臭い。
「どじょうになったな。何の用じゃ」
「えッへへへへ、どうもね、この通り般若湯《はんにゃとう》ですっかり骨までも軟かくなったんで、うれしまぎれに御殿様の御容子を拝見に参ったんでござんす。一件の女的《あまてき》はばれましたかい」
「見失うたゆえ、探しているのよ」
「顔に似合わず素ばしッこかったからね。どッかへ隠れてとぐろを巻いているんでしょうよ。いえ、なにね、それならそれでまた工夫もあると言うもんでござんす。実は今あの通りね、ほら、あそこの経堂のきわに大連の御講中が練り込んで来ておりますね。何でもありゃお江戸日本橋の御講中だとかいう話なんだ。日本橋と言えば土一升金一升と言う位なんだからね、きっとお金持ち揃いに違えねえんですよ。だから、今夜あの連中がお籠り堂へ籠ったところを狙って、こんな晩に大稼ぎとあの女的《あまてき》がお出ましになるに違えねえからね、どうでござんす。智慧はねえが力技は自慢のあッしなんだ。どじょうにして頂いたお礼心にね、あっしもお手伝いしたって構わねえんだが、殿様も旅のお慰みにお籠りなさって、化けて出たところを野郎とばかり、その眉間の傷でとッちめなすっちゃどうですかい」
「面白い。ドンツク太鼓をききながらお籠りするのも話の種になってよかろうぞ、万事の手筈せい」
「へッへへ。手筈と言ったって、おいらにゃこれがありゃいいんだ。酔がさめて夜半にまた喧嘩虫が起きるとならねえからね。ふんだんに油を流し込んでおくべえと、さっきの小判のうちからね、この通り用意して来たんですよ」
背中の奥から、盗んだ西瓜でも出すように、こっそり取り出したのは、すさまじいことに一升徳利が二本です。しかも万事に抜け目がない。
「ここが一番風通しがよくてね。ひと目にかからず中の様子はひと眺めという、お殿様の御本陣にゃ打ってつけの場所です。今のうちに取っておきましょうから、おいでなせえまし」
いざなっていった所は、広縁側の柱の蔭の、いかさま見張るには恰好な場所でした。そのまにもひとり二人、五人、八人といやちこき善男善女達が、あとからあとからと参詣に詰めかけてお山はしんしん、太鼓はドンツク、夕べの勤行《ごんぎょう》の誦唱《ずしょう》も極楽浄土のひびきを伝えながら、暮れました、暮れました。善も悪も恋も邪欲も、只ひと色の黒い布に包んで、とっぷりと暮れたのです。
三
ふけるにつれて、参籠所はギッシリと横になる隙もない程の人でした。百畳、いや二百畳、いや、三百畳敷位もあろうかと思われるその大広間と、虫のように黒くうごめくその数え切れぬ人々を、ぼんやり暗く照らしているのは、蓮華燈が六つあるばかり。その明滅する灯《あかり》の下で、鮨詰めの善男善女達が、襲いかかる睡魔を避けようためにか、蚊の唸るような声をあげて、必死とナンミョウホウレンゲキョウを唱えつづけました。
しかし、眉間の傷も冴えやかなわが早乙女主水之介は、うしろの柱によりかかって、いとも安らかに白河夜船です。まことに、これこそ剣禅一味の妙境に違いない。剣に秀で、胆に秀でた達人でなくば、このうごめく人の中で、しかも胡坐《あぐら》を掻いたまま、眠りの快を貪るなぞという放れ業は出来ないに違いないのです。
「殿様え。ね、ちょっと、眉間傷のお殿様え」
「………」
「豪儀《ごうき》と落付いていらっしゃるな。鼾《いびき》を掻く程も眠っていらっしゃって、大丈夫かな」
ちびりちびり三公は、二升徳利のどじょう殺しを舐《な》め舐め大満悦でした。
そのまにいんいんびょうびょうと、七|堂伽藍《どうがらん》十六支院二十四坊の隅々にまでも、不気味に冴えてひびき渡ったのは丁度四ツ。――その時の鐘が鳴り終るや殆んど同時です。さやさやと忍びやかに広縁廊下を通りすぎていったのは、まさしく女の衣《きぬ》ずれの音でした。――刹那! 轡《くつわ》の音に目を醒すどころの比ではない。何ごとも知らぬ
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