うた挙句、御仏に仕えるお方じゃ、いっそわたしも髪をおろして尼姿になりましたならば、いいえ、髪をおろして、尼姿に窶《やつ》し、念日様のお弟子になりましたならば、女と怪しむ者もござりませぬ筈ゆえ、朝夕恋しいお方のお側《そば》にもいられようと、こっそり家を抜け出し、今朝ほどのようにああしてこのお山へ上ったのでござります。幸い誰にも見咎《みとが》められずに首尾よう念日様のお手で黒髪を切りおとし、このような尼姿に、いいえ、ひと目を晦《くら》ます尼姿になることが出来ましたなれど、あの院代様に、さき程お争いのあの玄長様に、乳房を――いいえ、女である事を看破《みやぶ》られましたが運のつき、――その場に愛《いと》しい念日様をくくしあげて、女犯《にょぼん》の罪を犯した法敵じゃ、大罪人じゃと、むごい御折檻《ごせっかん》をなさいますばかりか、そう言う玄長様が何といういやらしいお方でござりましょう。宵からずっと今の先迄わたくしを一室にとじこめて、淫《みだ》らがましいことばかりおっしゃるのでござります。それゆえどうぞして逃げ出そうと思うておりましたところへ、この騒動が降って湧きましたゆえ、これ幸いとあそこの蔭まで参りましたら――お見それ申してお恥ずかしゅうござります。怕《こわ》らしいお殿様じゃとばかり思い込んでおりましたお殿様が、どうやら御気性も頼もしそうな御旗本と、つい今あそこで承わりましたゆえ、恥ずかしさも忘れて駈け出したのでござります」
「ほほう喃、左様か左様か。いやずんとうれしいぞ。うれしいぞ。恋するからにはその位な覚悟でのうてはならぬ。大切《だいじ》な黒髪までもおろして恋を遂げようとは、近頃ずんと気に入ったわい。それにつけても許し難きは玄長法師じゃ。先程|庇《かば》った女スリはいずれへ逃げ失《う》せたか存ぜぬか」
「庫裡《くり》の離れに長煙管を吸うておりまする。いいえ、そればかりか、先程念日様が折檻《せっかん》うけました折に、つい口走ったのを聞きましたなれど、なにやらあの女スリと玄長様とのお二人は、もう前から言うもけがらわしい間柄じゃとかいうことにござります。いえいえ、祠堂金《しどうきん》を初め、お山詣での方々の懐中を掠《かす》めておりますことも、みな玄長様のお差しがねじゃとか言うてでござります」
「なにッ。まことか! みなまことの事かッ」
「まことの事に相違ござりませぬ。わたしの念日様が嘘を言う気づかいござりませぬゆえ、本当のことに相違ござりませぬ」
「売僧《まいす》めッ、よくも化かしおッたなッ。道理で必死とあの女を庇いおッたわッ。スリを手先に飼いおる悪僧が衆生済度もすさまじかろうぞ。どうやら向う傷が夜鳴きして参ったようじゃわい。案内召されよ」
事ここに至らばもう容赦するところはない。篠崎流軍学の必要もない。院代玄長にかかる横道不埒《おうどうふらち》のかくされたる悪業があるとすれば、五万石が百万石の寺格を楯にとって、俗人不犯詮議無用の強弁《ごうべん》を奮おうと、傷が許さないのだ。あの眉間傷が許さないのです。――ずかずか引返して行くと、床しい美しい尼姿の恋娘をうしろへ随えながら、黙ってずいと行学院の大玄関を構わずに奥へ通りました。
「あの、なりませぬ! なりませぬ! どのようなお方もいつ切《せつ》通してならぬとの御院代様御言いつけにござりますゆえ、お通し申すことなりませぬ」
「………」
駈け出して小賢《こざか》しげに納所坊主《なっしょぼうず》両三名が遮《さえぎ》ったのを、黙々自若《もくもくじじゃく》として、ずいとさしつけたのは夜鳴きして参ったと言った眉間三寸、三日月形のあの冴えやかな向う傷です。
これにあってはやり切れない。ひとたまりもなく三人の青坊主達はちぢみ上がって、へたへたとそこに手をつきました。
ずいずいと通りすぎて、目ざしたのはあの女スリが長煙管|弄《もてあそ》んでいると言った庫裡《くり》の奥の離れでした。
「あの灯《あかり》の洩れている座敷が離れか」
「あい。ま! あの方も、念日様も、あそこへ曳かれてまた折檻に合うていなさりますと見え、あの影が、身悶《みもだ》えしておりまするあの影が、わたしの念日様でござります」
庭の木立ちを透かして見ると、まさしく三つの黒い影が障子に映っているのです。何やら怒号しているのは、あれだあれだ、六尺豊かな荒法師玄長坊でした。
と見るやつかつかと足を早めて、さッとその障子を押しあけると、まことにどうもその自若ぶり、物静けさ、胆の太さ、言いようがない。
「売僧《まいす》、ちん鴨《かも》の座興《ざきょう》にしては折檻《せっかん》が過ぎようぞ、眉間傷が夜鳴き致して見参《けんざん》じゃ。大慈大悲の衣《ころも》とやらをかき合せて出迎えせい」
「なにッ――よッ。また参ったかッ。た、誰の許しをうけて来入《らいにゅう》致しおった! 退れッ。退れッ。老中、寺社奉行の権職にある公儀役人と雖も、許しなくては通れぬ場所じゃ。出いッ。出いッ。表へ帰りませいッ」
不意を打たれてぎょッとうろたえ上がったのは、荒法師玄長でした。否! さらにうろたえたのはあの女スリでした。立て膝の蹴出しも淫らがましく、プカリプカリと長煙管を操っていた、あの許し難き女スリでした。両人共さッと身を退《ひ》いて、気色《けしき》ばみつつ身構えたのを、
「騒ぐでない、江戸に名代の向う傷は先程より武者奮い致しておるわ。騒がば得たりと傷が飛んで行こうぞ」
不気味に、静かに、威嚇しながら、そこに慄え慄え、蹲《うずくま》っている、わたしの念日様なる恋の対手の若僧をじろりと見眺めました。――無理はない。まことに恋の娘が尼にまでなったのも無理がない、実に何ともその若僧《じゃくそう》が言いようもない程の美男なのです。
「ほほう、川下の尼御前、羨ましい恋よ喃」
「いえ、あの、知りませぬ。そんなこと知りませぬ。それより念日様をお早く……」
「急がぬものじゃ。今宵から舐《な》めようとシャブろうと、そなたが思いのままに出来るよう取り計らってつかわそうぞ。ほら、繩目を切ってつかわすわ」
「よッ、要らぬ御節介致したなッ。何をするかッ。何をッ」
血相変えて玄長が詰《なじ》ったのは当然でした。
「女犯《にょぼん》の罪ある大罪人を、わが許しもなく在家《ざいけ》の者が勝手に取り計らうとは何ごとかッ」
「たけだけしいことを申すでない。ひと事らしゅう女犯の罪なぞと申さば裏の杜《もり》の梟《ふくろう》が嗤《わら》おうぞ」
「ぬかしたなッ。では、おぬし、五万石の尊い寺格、許しもうけずに踏み荒そうという所存かッ。詮議禁制、俗人不犯の霊地を荒さば、そのままにはさしおきませぬぞッ」
「またそれか、スリの女を手飼いに致す五万石の寺格がどこにあろうぞ。秘密はみな挙ったわッ。どうじゃ売僧《まいす》! そちの罪業《ざいごう》、これなる恋尼に、いちいち言わして見しょうか!」
「なにッ!……」
「そのおどろきが何よりの証拠じゃ。どうじゃ売僧! これにても霊地荒しの、俗人不犯のと、まだ四の五の申すかッ」
「そうか! 女めがしゃべったか。かくならばもう是非もない! ひと泡吹かしてくれようわッ」
だッと掴みかかろうとしたのを、静かにするりとかいくぐっておいて、疾風のように逃げ出そうとした女スリを横抱きに猿臂《えんび》を伸ばしざま抱きとると、
「総門外までちと土産に入用じゃ。――女! 騒ぐでない。江戸旗本がじきじきに抱いてつかわすのじゃ」
もがき逃れようとして焦るのを軽々と荷物のように運びながら、うしろにおどおどしている恋の二人を随えて、ずいずいと歩み出しました。
しかしその時、荒法師玄長のひと泡吹かしてやろうと言うのはそれであるのか、ドンドンとけたたましく非常太鼓を打ち鳴らしながら、表の闇に対って叫ぶ声が聞かれました。
「霊場を荒す狼籍者《ろうぜきもの》が闖入《ちんにゅう》じゃッ。末院《まついん》の御坊達お山警備の同心衆《どうしんしゅう》! お出合い召されいッ、お出合い召されいッ」
同時に、あちらから、こちらから霊場聖地の、夜半に近い静寂を破って、ドウドウいんいんと非常の太鼓が非常の太鼓につづいて鳴りひびいたかと思われるや、けたたましく叫び合ってどやどやと足音荒く殺到《さっとう》する気勢《けはい》が伝わりました。
だが退屈男の自若《じじゃく》ぶりというものはたとえようがない。
「わははは、人足を狩り出して御見送り下さるとは忝《かたじ》けない。それもまた近頃ずんと面白かろうぞ」
不敵に言いすてながら二人をうしろに、女を荷物にしたままで、急がず騒がず総門目ざしました――途端!
「あれじゃ! あれじゃ!」
「搦《から》めとれッ。搦めとれッ」
口々にわめき立てながら、行く手に殺到して来たのは僧兵もどきの二三百人と、身ごしらえ厳重なお山同心の一隊です。
「ほほう、揃うてお見送りか、夜中大儀々々」
少しあの向う傷の事を考えればよいのに、さッと恐れ気もなく行く手を塞いだのは八九名。同時に一喝が下りました。
「眉間をみいッ。眉間の三日月をみいッ。天下御免の通行手形じゃ。祖師日蓮のおん名のために鞘走《さやばし》らぬまでのこと、それを承知の上にて挑みかからば、これなる眉間傷より血が噴こうぞ」
微笑しながらずいずいと行くのに手が出ないのです。その騒ぎを聞いたか、わッと参籠所から雪崩出て来たのは、善男善女の真黒い大集団でした。見眺めるや退屈男の声は冴え渡りました。
「きけ! きけ! いずれもみなきけ! その方共の懐中を狙うたお山荒しの女スリは、直参旗本早女主水之介が押え捕ってつかわしたぞ! いずれも安心せい!――ではうしろの二人。あれが総門じゃ。ゆるゆる参ろうぞ」
威嚇しては押し分け、押し分けては威嚇しながら、悠々と総門外へ出ると、冴えたり! その叱咤のすぱらしさ!
「さあ参れッ。この門を外に出でなば斬り棄て御免じゃ。三目月傷も存分に物を言おうぞッ。遠慮のう参れッ」
だが来ない。来られるわけがないのです。本当に三日月傷があやかにもすさまじく物を言うのであるから、来られるわけがないのです。――その代りに、ちょろちょろと、やって来たのは、どじょう殺し持参のあの三|的《てき》でした。
「よう。日本一のお殿様! 向う傷のお殿様! あッしだ。あッしだ。たまらねえお土産をお持ちだね。お約束だ、お手伝い致しますぜ」
「生きておったか。幸いじゃ。早う舟を用意せい」
「合点だッ。富士川を下るんですかい」
「身共ではない。ここに抱き合うておいでの花聟僧に花嫁僧お二人じゃ。しっぽり語り合うているまに、舟めが岩淵まで連れてくれようぞ。――両人、来世も極楽じゃがこの世もずんとまた極楽じゃ。そのような恋の花が咲いておるのに、つむりを丸めて味気のう暮らすまでがものはない。遠慮のう髪を伸ばして楽しめ。楽しめ。わははは、身共はひとりで退屈致そうからな」
あい、とばかりに泣き濡れて、いと珍しい僧形《そうぎょう》の花嫁花聟が、恥じらわしげに寄り添いながら、横取りの三公の手引で渡し場目がけつつ闇の道をおりようとしたとき。
「ここにうせたかッ。帰してなるものかッ。いいや、女を渡してなるものかッ。出合えッ、立ち合えッ」
叫びざま追いかけて来て、荊玉造《いばらだまつく》りの鉄杖《てつじょう》ふりあげながら、笑止にも挑みかかったのは玄長法師です。
「まだ迷いの夢がさめぬかッ。早乙女主水之介、恐れながら祖師日蓮に成り代り奉って、妄執《もうしゅう》晴らしてくれようぞ」
女を小脇のままで、あッと一閃、抜き払った刀の峯打《みねう》ちです。ぐうう――と長い音を立てながら、六尺入道玄長法師がもろくも悶絶《もんぜつ》しながら、長いうえにも長く伸びたのを見ますと、荷物にしていた女にはこぶし当ての一撃!
「並んで長くなっておらば、貫主《かんす》御僧正《ごそうじょう》が事の吟味遊ばさって、よきにお計らい下さろうぞ、ゆるゆる休息致せ」
ゆらりゆらりと降りて行く闇の下から言う声がありました。
「日本一の三日月殿様! 花嫁舟は出しましたよう。泣いてね、ぴったり
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