ぞ。勇ましいぞ」
不意にうしろの濃い霧の中から、すさまじい笑声が爆発したかと思うと、降って湧いたかのように、ぽっかりと霧の幕を破りながら立ち現れた着流し深編笠の美丈夫がありました。誰でもないわが退屈男です。まことに飄々乎《ひょうひょうこ》として、所もあろうにこんな山路の奥の身延街道に姿を現すとは、いっそもう小気味のいい位ですが、しかし、当の本人はそれ程でもないと見えて、相変らず言う事が退屈そうでした。
「元禄さ中に力技《ちからわざ》修業を致すとは、下郎に似合わず見あげた心掛けじゃ。直参旗本早乙女主水之介賞めつかわすぞ。そこじゃ、そこじゃ。もそッと殴れッ、もそッと殴れッ。――左様々々、なかなかよい音じゃ。もそッと叩け、もそッと叩け」
「え?……」
驚いたのは掴み合っている馬子達でした。
「三公、ちょッと待ちな。変なことを言うお侍がいるから手を引きなよ。――ね、ちょッと旦那。あッし共は力技の稽古しているんじゃねえ。喧嘩しているんですぜ」
「心得ておる。世を挙げて滔々《とうとう》と遊惰《ゆうだ》にふける折柄、喧嘩を致すとは天晴れな心掛けと申すのじゃ。もそッと致せ。見物致してつかわすぞ」
「変っているな。もそッと致せとおっしゃったって、旦那のような変り種の殿様に出られりゃ気が抜けちまわあ。じゃ何ですかい。止めに這入《へえ》ったんじゃねえんですかい」
「左様、気に入らぬかな。気に入らなくば止めてつかわすぞ。一体何が喧嘩の元じゃ」
「何もこうもねえんですよ、あッちの野郎はね。横取りの三公と綽名《あだな》のある仕様のねえ奴なんだ。だからね、あっしが見つけたお客さんを、またしても野郎が横取りに来やがったんで、争っているうちに、ついその、喧嘩になったんですよ。本当は仲のいい呑み友達なんだが、妙な野郎でね、シラフでいると、つまりその酒の気がねえと、奇態にあいつめ喧嘩をしたがる癖があるんで、どうも時々殿様方に御迷惑をかけるんですよ。ハイ」
「ウフフ、陰にこもった事を申しおる喃。シラフで喧嘩をしたがる癖があるとは、近頃変った謎のかけ方じゃ。では何かな、横取りの三公とか申すそちらの奴は、酒を呑ますとおとなしくなると言うのじゃな」
「えッへへ、と言うわけでもねえんだが、折角お止め下すったんだからね、お殿様がいなくなってからすぐにまた喧嘩になっては、お殿様の方でもさぞかし寝醒が悪かろうと、親
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