旗本退屈男 第六話
身延に現れた退屈男
佐々木味津三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)杜《もり》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)三|的《てき》!
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       一

 その第六話です。
 シャン、シャンと鈴が鳴る……。
 どこかでわびしい鈴が鳴る……。
 駅路の馬の鈴にちがいない。シャン、シャンとまた鳴った。
 わびしくどこかでまた鳴った。だが、姿はない。
 どこでなるか、ちらとの影もないのです。見えない程にも身延《みのぶ》のお山につづく街道は、谷も霧、杜《もり》も霧、目路の限り夢色にぼうッとぼかされて只いち面の濃い朝霧でした。しっとり降りた深いその霧の中で、シャンシャンとまた鈴が鳴りました。遠くのようでもある。近くのようでもある。遠くと思えば近くに聞え、近くと思えば遠くに聞えて、姿の見えぬ駅路の馬の鈴が、わびしくまたシャンシャンと鳴りました。――と思ったあとから、突如として、声高《こわだか》に罵り合う声が伝わりました。
「野郎ッ、邪魔を入れたな。俺のお客だ、俺が先に見つけたお客じゃねえかッ」
「何ょ言やがるんでえ、おいらの方が早えじゃねえか、俺が見つけたお客だよ」
 鈴のぬしの馬子達に違いない。暫く途絶えたかと思うとまた、静かな朝の深い霧の中から、夢色のしっとりと淡白いその霧の幕をふるわせて、はげしく罵り合う声が聞えました。
「うるせえ野郎だな。どけッてたらどきなよ。お客様はおいらの馬に乗りたがっているじゃねえか。しつこい真似すると承知しねえぞ」
「利いた風なセリフ吐《ぬ》かすないッ。うぬこそしつこいじゃねえか。おいらの馬にこそ乗りたがっていらッしゃるんだ。邪魔ッ気な真似するとひッぱたくぞ」
「畜生ッ、叩《た》てえたな。おらの馬を叩てえたな。ようしッ、俺も叩てえてやるぞ」
「べらぼうめッ。叩いたんじゃねえや。ちょッとさすったばかりじゃねえか。叩きゃおいらも叩いてやるぞ」
「野郎ッ、やったな!」
「やったがどうした!」
「前へ出ろッ、こうなりゃ腕ずくでもこのお客は取って見せるんだ。前へ出ろッ」
「面白れえ、俺も腕にかけて取って見せらあ、さあ出ろッ」
 ドタッ、と筋肉の相搏《あいう》つ音がきこえました。――しかしそのとき、
「わははは。わははは。やりおるな。なかなか活溌じゃ。活溌じゃ。いや勇ましい
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