こみかみ》のあたりをぴくぴくさせて、プツリと鯉口切りながらにじり出たのを、片手にふわりふわりと長い釣の道具を打ち握ったままで、笑い笑い割って這入ったのはわが退屈男です。
「飛んだお災難でござったな。何とも御愁傷《ごしゅうしょう》の至りでござる。わははは、わははは、黒めがなかなか味を致しましたわい。どうでござるな、御怪我はござらなかったかな」
「………?」
「いや、お気にかけずに、お気にかけずに。身共笑うたのは尊公方の落馬ぶりが見事でござったゆえではない。あれなる黒めが、人前も弁《わきま》えず怪しからぬ振舞い致そうとしたのでな、それがおかしいのじゃ。尊公方もとくと御覧じ召されよ。自然の摂理と申すものは穴賢《あなかしこ》いものじゃ。黒めが、やわか別嬪《べっぴん》逃《の》がすまじと、ほら、のう、あの通り今もなおしきりと弾《はず》んでいるわ、わはははは、わはははは、のう、どうじゃ、畜生のあさましさとはまさしくあれじゃわ。はははは、わはははは」
「なにがおかしいかッ。われら笑いごとでござらぬわッ。嘲笑がましいことを申して、おぬしは一体何者じゃ」
「身共かな、身共は、ほらこの通り――」
 打ち笑みながら、ずいと突き出したのはあの刀傷です。
「のう、御覧の通りの、ま、いわば兇状持ちじゃ。これなる眉間の傷を名乗り代りの手形に致して、かように釣の道具を携《たずさ》えながら、足のむくまま、気のむくままに、退屈払い探し歩く釣侍と思えば当らずとも遠からずじゃ、時に、いかがでござるな。御怪我はござらなかったかな」
「からかいがましいこと申すなッ。おぬしなぞ対手でござらぬ! 憎いはその百姓じゃ! 己れの罪を素直に詫び[#「詫び」は底本では「詑び」と誤植]たらまだしも格別、馬のせいに致すとは何ごとじゃッ。出い! 出い! 是が非でも打《ぶ》った斬ってつかわすわッ。隠れていずと前へ出いッ」
「いや、そこじゃて、そこじゃて。馬のせいに致したと大分御立腹のようじゃが、これなる若者、身共はいっそほめてやりたい位のものじゃ。見かけによらずなかなか学者でござるぞ。尊公方もまあ、よう考えてみい。男女道に会って恋心を催す、畜生と雖も生ある限り、牡、牝を知って、春意を覚ゆるは、即ち天地自然陰陽の理に定むるところじゃ。のう、いかがでござるな。甚だ理詰めの詫び[#「詫び」は底本では「詑び」と誤植]と思うが、それにても馬のせいに致したは御勘弁ならぬと仰せあるかな」
「つべこべ長談義申さるるなッ、われら、そのような屁理屈《へりくつ》聞く耳持たぬわッ。たとえ陰陽の摂理とやらがどうであろうと、先に挑んだはそちらの馬じゃ。ならば、乗り手に罪がある筈。――それともうぬが対手になろうとの所存かッ」
「うぬとは言葉がすぎる! 控えおろうぞ!」
「なにッ」
「とまあ叱って見たところで初まらぬと申すものじゃ。尊公はこちらの馬が先に挑みかかったゆえ、勘弁ならぬと仰せのようじゃが、肝腎かなめ、きいてうれしいところもそこじゃて、そこじゃて。夫《それ》、婦女子は慎しみあるを以て尊しとす。女、淫に走って自ら挑むは即ち淫婦なり、共に天を戴かずとな、女庭訓《おんなていきん》にも教えてあることじゃ。さればこそ、あれなる黒めも物の道理よく心得て、恋は牡より仕掛くるものと、花恥かしげに待ちうけた牝馬共に進んで挑みかかったのは、甚だうい奴と思うがどうじゃな。よしんば挑んだことが行状よろしからざるにしても、そこはそれ畜生じゃ。罪は決してこれなる若者にないと思うがいかがじゃな。身共も少し学問がありすぎて、御意に召さぬかな」
 召すにも召さないにも、こうやんわりと不気味に、しかも一向恐れ気もなく釣竿を肩にしたまま、大手|搦《から》め手両道から説き立てられては、いかに気負いの藩士でもぐッと二の句に詰ったのは当り前です。だが、返す言葉に詰ったからとて、今さらすごすごと引ッ込まれるわけのものではない。中の気短そうなひとりが、癇癪筋《かんしゃくすじ》に血脈《ちみゃく》を打たせながらせせら笑うと、退屈男のその言葉尻を捉えて、噛みつくように喰ってかかりました。
「ならば貴公、罪なき者は斬ってならぬ。罪あらば何者たりと斬っても差支えないと申すかッ」
「然り! 士道八則にも定むるところじゃ。斬るべしと知らば怯《ひる》まずしてこれを斬り、斬るべからずと知らば忍んでこれを斬らず、即ち武道第一の誉《ほまれ》なりとな。これもやはり御意に召さぬかな」
「かれこれ申すなッ、ならば目に物見せてやるわッ」
 罵り叫びざまに、さッと大刀抜き払うや否や、もろ手斬りに斬り払ったのは、若者と思いきや、挑みかかった黒鹿毛のうしろ脚です。
「か、可哀そうに! なにをなさります! なにをむごいことなさります!」
 打ちおどろいて、言う声もおろおろと若者が涙ぐんだのを、

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