も無理からぬ事です。見台の端の建札に小さく、次のような人を喰った文字が書かれてあるのでした。
[#ここから1字下げ]
「唖ニ候エバ、御筆問下サレ度、陰陽四十八|占《ウラナイ》、何ナリト筆答致ベク候。
阿部流易断総本家。――一|珍斎《チンサイ》」
[#ここで字下げ終わり]
「わはははは。左様か左様か。唖じゃと申すか。犬も歩けば棒にあたるとはこれじゃな。面白い面白い、ずんと面白い。然らば、筆問してつかわすぞ」
主水之介は、とみにほがらかになりながら、早速筆をとって書きしたためました。
[#ここから2字下げ、ただし冒頭の「のみは1字下げ]
「退屈ノ折カラナレバ対手欲シ。
剣難アリヤ。
女難アリヤ。
神妙ニ返答スベシ」
[#ここで字下げ終わり]
差し出した紙片を受取りながら、老いたる白髯《はくぜん》の観相家は、自ら阿部流と誇称する通り、あたかも阿部の晴明の再来ででもあるかのごとく、いとも厳粛に威容を取り繕《つくろ》って、気取りに気取りながら、筮竹《ぜいちく》算木《さんき》[#ルビの「き」は底本のママ]をつまぐりはじいていましたが、やがて勿体らしく書きしたためた筆答が、また少なからず人を喰ったものばかりでした。
[#ここから2字下げ、ただし冒頭の「のみは1字下げ]
「御気ノ毒ナガラ金運ナシ。
サレド富貴栄達ノ相アレバ、一国一城ノ|主《アルジ》タラム。
美姫《ビキ》アリ。
西ヨリ来ッテ妻トナル。
夫情《フジョウ》濃《コマ》ヤカニ致サバ、男子《ナンシ》十一人出生セム。
剣難ナシ。
サレド道ニ喧嘩口論ヲ挑ム者アリ、手向イ致サバ怪我スル恐レアレバ、逃グルニ如《シ》カズ。
心スベシ。
右神易ノ示ストコロナリ。疑ウベカラズ。見料モ亦忘ルベカラズ」
[#ここで字下げ終わり]
「わははははは。こやつ喰わせ者じゃな。阿部流総本家とはすさまじいぞ。わははは、わははは」
退屈男は、思わず声をあげて、カラカラと笑い出しました。どれもこれも出鱈目《でたらめ》以上に出鱈目、滑稽以上に滑稽だったからです。千二百石取りの大身をとらえて、金運なしと空《そら》うそぶいたのも然り、富貴栄達の道がないからこそ退屈もしていると言うのに、一国一城の主云々と言ったのも然り。美姫あり、西より来って妻となり、男子十一人出生も人を喰った話ですが、わけても江戸名代胆力無双のわが旗本退屈男を目前にして、道に喧嘩口論を挑む者あり、逃げるに如《し》かずと当らぬ八卦を下すに至っては、一珍斎どころか大珍斎も大々の大珍斎でした。
「わははは、神易の示すところなりとは、おやじ、大きいぞ! 大きいぞ! 島原にもなかなか風流な奴がいるわい。察するに貴様|偽唖《にせおし》じゃな。わははは、わははは」
愉快に堪えないもののごとく退屈男は、カンラカンラと打ち笑いました。
しかし笑っているとき――
「邪魔だッ、ヘゲタレ! どかすか! ヘゲタレ!」
異な声をあげながら、異な事を言って、不意に退屈男の刀のこじりを、ぐいと突きのけたものがありました。
二
江戸に生れて三十四年、伝法に育って、鉄火に身を持ち崩してはいるが、いまだ嘗てヘゲタレとは耳にしない言葉です。――不審に思って退屈男は、静かにふりむきました。
と同時に目の前を、奴凧《やっこだこ》のように肩を張って、威張りに威張りながら通りぬけようとしていたのは、三十二三のぞろりとした男です。――江戸ならば先ず、町の兄哥《あにい》の鳶頭《とびがしら》とでも言うところに違いない。
「町人!」
退屈男は至って静かに、おちついて呼びとめました。
「まてッ、町人!――こりゃ待たぬか! 町人」
「なんでえ! 呼びとめて何の用があると言うんだ」
「異な事を申したゆえ、後学のために相尋ねるのじゃ。ヘゲタレとか申すのは身共のことかな」
「阿呆ぬかすない。身共なればこそ言ったんだ。因縁つけて喧嘩を売ろうと言うのか」
「のぼせるなのぼせるな。骨の固まらぬ者が左様に気取るものではない。そのヘゲタレとか申すは、食べ物の事かな」
「ちょッ、こいつ吐かしたな。ヘゲタレを知らねえような奴あヘゲタレなんだ。どなたのお道中だと思ってるんだ。珠数屋《じゅずや》の大尽がお通りじゃねえか! 所司代様だっても関白様だっても、お大尽にゃ一目おく程の御威勢なんだ。どきなどきな。どいて小さくなっていりゃ文句はねえんだよ」
町人|風情《ふぜい》の葉ッ葉者が、武士を粗略にした雑言《ぞうごん》を吐いたばかりか、ききずてにならぬ事を言いながら、わが旗本退屈男を痩せ浪人ででもあるかのごとくに取扱って、遠慮会釈もなくぐいぐいとうしろに押しのけたので、いぶかりながらふり返って見眺めると、いかさま大道狭しと八九人の取り巻を周囲に集《たか》らせて、あたりに人なきごとく振舞いながら、傲然《
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