られたかッ。もうこうなりゃ、よも生かしては帰すまい。いかにもあの晩、うぬに邪魔をされた北町御番所の杉浦権之兵衛じゃ。さ! 生かすなと殺すなと勝手にせい!」
「まてまて、物事はそうむやみと急《せ》いてはならぬ。なる程、あの夜ちと邪魔立てしたが、それにしても身共の命迄狙うとは何としたことじゃ」
「知れたこと。うぬが要らぬ旗本風を吹かしゃがって、庇うべき筋合のねえ奴を庇やがったために、折角網にかけた大事な星を取り逃がしたお咎めを蒙って、親代々の御番所の職を首にされたゆえ、その腹いせをしにやって来たんだッ」
「なに、お役御免になったとな? それ迄響きが大きゅうなろうとは知らなかった。そうときかばいささかお気の毒じゃ。この通り詫び[#「詫び」は底本では「詑び」と誤植]を申そうぞ。許せ、許せ。では何じゃな、あの怪しの奴は余程の重罪人じゃったな」
「へへえ、では何でござりまするか」
きくや、杉浦権之兵衛が、少し意外そうな面持《おももち》で、いぶかしそうに退屈男の顔を見上げていましたが、いく分怒りが鎮まりでもしたかのごとく、がらりと言葉の調子迄も変えてきき訊ねました。
「では、何でござりまするか、御前はあ奴《やつ》が何者であるともご存じなくてお庇いなさったのでござりまするか」
「無論じゃ。無論じゃ。存じていたら身共とて滅多に庇い立ては出来なかったやも知れぬよ」
「そうでござりましたか。実は御前があ奴の身の上を御承知の上で、尻押しなさったのじゃろうと邪推致しましたゆえ、ついカッとなりまして、あの翌る日職を奪われました時から、こうしてお出ましの折をつけ狙っていたのでござりまするが、そうと分らば手前の腹の虫も大分|癒《い》えてござります。何をかくそう、あ奴めは、百化け十吉と仇名のお尋ね者にござりまするよ」
「奇態な名前のようじゃが、変装でもが巧みな奴か」
「はっ。時とすると女になったり、ある時はまた盲目になったり、自由自在に姿形を化け変えるが巧みな奴ゆえ、そのような仇名があるのでござります。それゆえ、これ迄も屡々町役人の目を掠《かす》めておりましたが、ようようと手前が眼《がん》をつけましたゆえ、あの夜手柄にしようと追うて参ったところでござりました」
「ほほうそうか。いや、許せ、許せ。一体そのように化けおって何を致すのじゃ」
「奇態に女を蕩《とろ》かす術《すべ》を心得おりまして、みめよき婦女子と見ると、いつのまにかこれをたらしこみ、散々に己れが弄んだ上で沢山な手下と連絡をとり、不届至極にも長崎の異人奴《いじんめ》に売りおる奴でござります」
「なに!?[#「!?」は横一列] 不埒《ふらち》な奴よ喃《のう》。――それきかばもう、この主水之介が棄ておけずなったわ。ようしッ、身共が今日よりそちの力となってつかわそうぞ」
「そ、それはまた不意に何とした仔細にござります! よし、お怪我はなかったにしても、一度は御前に不届な種ガ島を向けたわたくし、このままお手討になりましょうとも、お力添えとは少しく異な御諚《ごじょう》ではござりませぬか」
「一つは公憤、二つにはそちをそのような不幸に陥入れた罪滅ぼしからじゃ。それにあ奴め、この主水之介を毒殺しようと致しおったぞ」
「何でござります! そ、それはまた、どうした仔細からにござります」
「そちから今、十吉めの素性をきいて、ようようはっきり納得いたしたが、実は身共も奴めが少し不審と存じたゆえ、あの夜逃がしてつかわす砌《みぎり》、もしや重罪人であってはならぬと、のちのち迄の見覚えに、奴めの頤《あご》に目印の疵をつけておいたのじゃ。それゆえ、どのように百化け致しおっても、身共がこの世に生きてこの目を光らしておる限りは、頤の疵が目印になって正体を見現わさるるゆえ、それが怖うてこの主水之介を亡きものに致そうとしたのであろうよ」
「そうでござりましたか。御前に迄もそのような大それた真似をするとは呆れた奴でござります。では、お力添え下さりますか」
「いかにも腕貸ししてつかわそう! 番所の方も亦、復職出来るよう骨折ってつかわすゆえ、安心せい」
千|鈞《きん》の重味を示しながら断乎と言い放って、何かやや暫し打ち考えていましたが、不意に言葉を改めると、猪突に杉浦権之兵衛へ命じました。
「では善は急げじゃ。在職中の配下手先なぞもあろうゆえ、その者共を出来るだけ大勢使って、旗本退屈男の早乙女主水之介は、今朝よそから到来の鯛を食して、敢《あえ》なく毒殺された、とこのように江戸中へ触れ歩かせい」
「奇態な御諚でござりまするが、それはまた何の為でござります」
「知れたこと。さすれば身共が死んだことと思うて、百化け十吉めが安心いたして、また江戸の市中に出没いたし、魔の手を伸ばすに相違ないゆえ、そこを目にかかり次第引ッ捕えるのじゃ」
「いかさまよい工夫にござります。では、すぐさま手配をいたしまして、のち程またお屋敷の方へ参じますゆえ、お待ち下されませ」
先刻京弥から見舞われた太股の疵の痛みを物ともしないで、欣舞《きんぷ》しながら非人姿の杉浦権之兵衛が立去りましたので、主水之介もまた直ちに駕籠を屋敷へ引き返させました。
四
やがてのことにしっとりと花曇りの日は暮れて、ひたひたと押し迫って来たものは、一刻千金と折紙のつけられているあの春の宵です。その宵の六ツ半頃――。
「御前……」
先程の非人姿だった杉浦権之兵衛が、いつのまにか小ざっぱりとした姿に変りながら、甲斐々々しく復命に立ちかえって来たので、退屈男も様子いかにときき尋ねました。
「大分早いようじゃな。江戸一円に触れさせるとあらば、容易な手数ではなさそうじゃが、いかがいたした」
「いえもう、こういう事ならば手前がお手のものでござります。若い奴等を十人ばかりもかき集めましてな、第一に先ず御前には縁の深い、曲輪五丁街へ触れさせなくてはと存じまして、早速お言いつけ通り口から口ヘ広めさせましたところ、御名前の御広大なのにはいささか手前も驚きましてござりまするよ――江戸名物旗本退屈男何者かに毒殺さる、とこのようにすぐともう瓦版《かわらばん》に起しましてな、町から町へ呼び売りして歩いたげにござりまするぞ。それから、第二にはなるべく人の寄る場所がよかろうと存じましたのでな。目貫《めぬき》々々の湯屋床屋へ参って、巧みに評判させましてござります」
「いや左様か。商売道に依って賢しじゃ、まだちと薬が利くのは早いかも知れぬが、でもこうしていたとて退屈ゆえ、ではそろそろ江戸見物に出かけるか」
言いつつ、何かもう前から計画が立ってでもいたかのごとく微笑していましたが、不意に大きく呼びました。
「こりゃ京弥、それから菊!」
雛の一対のごとき二人が、なぜとはなくもうぼッと頬に紅《べに》を染めながら、相前後してそこに現れるのをみると、退屈男は猪突に愛妹へ言いました。
「のう菊、お前にちと叱られるかも知れぬが、京弥に少々用があるゆえ、この兄が二三日借用致すぞ」
「ま! 何かと言えばそのような御冗談ばっかりおっしゃいまして、あまりお冷やかしなさりましたら、いっそもうわたしは知りませぬ」
「なぞと陰にこもったことを申して、その実少し妬いているようじゃが、煮て喰いも焼いて喰いもせぬゆえ、大丈夫じゃ。では、借用するぞ」
愛撫のこもった冗談口を叩いていましたが、やにわと京弥に言いました。
「今朝ほど、腕が鳴ってならぬとか申していたゆえ、望みにまかせて、腕ならしさせてつかわそうぞ。早速菊路にも手伝うて貰うて、女装して参れ」
「でも、あの、わたくしの腕が鳴ると申しましたのは、女子《おなご》なぞになりたいからではござりませぬ」
「おろかよ喃《のう》。百化け十吉をおびきよせる囮《おとり》になるのじゃ。そちの姿顔なら女子に化けても水際立って美しい筈じゃ。どこでいつ十吉に見染められるかは存ぜぬが、この退屈男が毒殺されたと噂をきかば、今宵になりとみめよき婦女子を浚《さら》いに出かけるは必定ゆえ、海老で鯛を釣ってやるのよ」
「そうでござりましたか。よく分ってでござります。ではお菊どの、御造作ながら御手伝い下さりませ」
打揃いながら別室へ退《しりぞ》いていったかと思われましたが、程経てそこに再び立ち現れた京弥の女装姿は、まこと、女子にしても満点と言った折紙すらもが今は愚かな位です。大振袖に胸高な帯をしめて、見るから水々しげな薄萠黄色のお高僧頭巾にすっぽりと面《おもて》を包み、肩のあたりの丸々とした肉付き、腰のあたりのふくよかな曲線、はてはそこに乳房もかくされているのではないかと、怪しまれる程な艶に悩ましい女装でしたから、命じた主水之介までがやや暫し見惚れた位でしたが、やがて自身は勿論のこと、杉浦権之兵衛にも命じて、深々と覆面させると、細身の太刀をおとし差しに、お馴染の意気な素足に雪駄ばきで、京弥、権之兵衛両名を引き具しながら、悠々と長割下水を立ちいでましたのは、宵の五ツ少し手前な刻限でした。
今の時間ならば丁度七時半前後といった時分ですから、御意はよし、春はよし、恰もそぞろ歩きの人の出盛り時で、しかし、退屈男以下三名の目ざしたところは、川を向うに渡っての日本橋から京橋への大通りでした。無論のことにそれと言うのは、囮の京弥をなるべく人の目に立たせるためで、人が京弥のすばらしい女装姿に見惚れて通ったならば、いつかそのあでやか振りが伝わって、百化け十吉の耳にも這入り、或は直接また目にもかけ、うまうま海老で鯛を釣る事が出来るだろうと思ったからでした。
さればこそ退屈男は、屋敷を出てから女装の京弥とは二三丁もわざと距離をおいて、どこで十吉がかいま見た時でも、あく迄京弥がひとり歩きであるかのごとくに見せかけるべく、権之兵衛とふたり離れ離れにあとを追いました。
道は先ず両国橋から人形町へぬけ、あれを小伝馬町から本石町に廻り、さらにまた日本橋へ下って、それから京橋、尾張町と人出の多そうなところを辿りながら、ずっと更に南迄のして、芝神明前迄いったときがかれこれもう四ツ前――即ち今の時刻にして丁度九時半頃です。
しかし、折角の囮もその夜はいささか徒労でした。通りすがりに京弥を見かけながら、「ちえッ。ぞっとするような別嬪《べっぴん》じゃねえかよ。男一匹と生れたからにゃ、たったひと晩でいいから、あんなのとなに[#「なに」に傍点]してみていな」
「そうよな。お嬢さんにしちゃひとり歩きのところが、存外とこりゃ乙な筋合いかも知れねえぞ」
なぞと声高にしつつ、行きすぎたいくたりかのざれ男共はありましたが、肝腎の百化け十吉らしい者に出会わなかったことは、いかにも残念と言うべきでした。
然るにその翌あさでした。
「御前! 実に太い奴ではござりませぬか。朝程御番所から元の手下が来ての知らせによりますと、御眼力通り御前の毒殺されたという噂に安心してからか、たしかに百化け十吉らしい奴がゆうべ牛込の藁店《わらだな》に現れまして、そこの足袋屋小町と言われておりました若い娘を、巧みに浚《さら》っていったという訴えがあったげにござりまするぞ」
不幸こちらの囮網にこそはかからなかったが、まさしく十吉とおぼしき者の出没した事を権之兵衛が報告いたしましたので、退屈男の目を光らしたのは言うまでもなく、その夜同じ頃が訪れると、再びまた京弥を女装させつつ、長割下水の屋敷を立ちいでました。しかも、その出かけていった道筋が、前夜と全く同様の町々でしたから、ちょっとばかり奇態に思われましたが、しかしここが実はやはり退屈男の凡夫でない証拠なのです。夜毎々々に道筋町筋を取り替えて釣りに出かけるよりも、根気よく焦らずに同じ方面をさ迷っていたら、いつかは必ず百化け十吉の目に止まる時があるだろうと考えたからでした。
だのに、何とも腹の立つ事には、第二夜も囮は結局徒労でした。第三夜も第四夜もまた空しい努力に帰しました。そうして根気よく第六夜目に、同じく京弥を囮に仕立て、人形町から小伝馬町への俗に目なし小路と称した、一丁目も二丁目もない小屋敷つづきの、やや物寂しい一廓へさしか
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