「……? ほほう、いかさま大きな鯛じゃな。手紙とやらは開けてみるも面倒じゃ、そち代って読んでみい」
「大事ござりませぬか」
「構わぬ、構わぬ」
「………?」
「いかが致した。首をひねっているようじゃが、なんぞいぶかしい事でも書いてあるか」
「文字がいかにも奇態な金釘流にござりますゆえ、読み切れないのでござります――いえ、ようよう分りました――ごぜん、せんやは、たいそうもねえ御やっかいをかけまして、ありがとうごぜえやした。じきじき、お礼ごん上に伺うが定《じょう》でごぜえやすが、さすればまたおっかねえものが、あごのところへ飛んで来るかも存じませぬゆえ、ほんのお礼のしるしに、ちょっくらこれを投げこんでおきやした。お口に合わねえ品かも存じませぬが、性《しょう》はたしかの生の鯛、気は心でごぜえやすから、よろしくお召し上がり下せえまし――と、このように書き認めてござります」
「ほほうそうか。贈り主は前夜のあの怪しい血まみれの男じゃな。それにしてはちと義理固すぎるようじゃが、どれどれ、鯛をもっとこちらへ。よこしてみせい」
 何気なく近よせて、何気なく打ちのぞいていましたが、じろりと一|瞥《べつ》するや、まさにその途端です。
「はて、いぶかしい。魚が口から黒血を吐きおるぞッ」
「えッ、黒血でござりますとな!?[#「!?」は横一列]」
「みい! 尾鰭《おひれ》も眼も生々と致して、いかさま鮮魚らしゅう見ゆるが、奇怪なことに、この通り口からどす黒い血を吐き垂らしておるわ。それに贈り主がちと気がかりじゃ。まてまて、何ぞ工夫をしてつかわそう――」
 言いつつ何やら考えていましたが、のっそり立ち上がって庭先へ呼び招いたのは下僕でした。
「こりゃ、七平、七平!」
「へえい――御用でござりましたか」
「その辺の原っぱにでも参らば、どこぞに、野良犬かどら猫がいるであろう。御馳走してつかわす品があるゆえ、早速|曳《ひ》いて参れ」
 すぐに走り出していった様子でしたが、程経て下僕が、一匹の見るからに剽悍《ひょうかん》無比などら猫を曳いて帰ったので、退屈男は手ずからそれなる不審の鯛をとりあげると、笹折ごとに投げ与えました。飢えたるところへ、好物の生魚がやにわと降って来たので、何条野良猫に躊躇《ちゅうちょ》があろう! 野蛮な唸り声を発しつつ、がぶりと勇壮に噛みつくと、見る見るうちに目の下一尺もあろうと思われる品を平らげてしまいました。
 然るにいささかこれが奇態です。黒血を吐き垂らしている工合といい、贈り主の気にかかる男であった点といい、もしや何ぞ不届きな仕組みでもありはしないかと思われたればこそ試食もさせたのに、予想を裏切って野良猫は、ぺろぺろとおいしそうに頂戴してしまうと、至って堪能した顔つきをしながら、一向に平然として立ち去ろうとしたので、はて疑ぐりすぎたかなと思いながら、いぶかしんで見詰めていると、だが――その二瞬とたたない途端です。五足六足行きすぎたかと思われましたが、果然、野良猫が足をとられて、ころりとそこに打ち倒れると、いとも不気味な呻き声をあげながら、断末魔の苦悶を現して、たらたらと黒血を吐き垂らし出しましたので、ぎょッとしたのは京弥でした。
「よよッ、何としたのでござりましょう! やっぱり毒でも仕掛けてあったようにござりましたな」
「左様。まさしく鴆毒《ちんどく》じゃ」
「えッ。では、あの怪しい男め、お殿様のお命を縮め奉ろうとしたのでござりましょうか」
「然り――」
「不届きな! あれ程の大恩をうけましたのに、恩を仇で返すとは、また何としたのでござりましょう。何がゆえに、かような大それた真似をしたのでござりましょう」
「察するにあの夜、頤《あご》の下に疵をつけておいて帰したゆえ、その目印しを知っているわしを生かしておくのが、何かと邪魔に思えたからであろうよ。それだけにあ奴《やつ》、存外の大悪党かも知れぬぞ」
 言いつつ、これはまたどうやら退屈払いが出来そうになったかなと言わぬばかりで、にんめりと微笑していましたが、突然京弥に命じました。
「御苦労じゃが、駕籠の用意をさせてくれぬか」
「不意に白昼、駕籠なぞお召し遊ばしまして、どこへ御出ましにござります」
「知れたこと、北町奉行所じゃ」
「では、あの、前夜あの者|奴《め》をお庇《かば》い遊ばしたことを、お詫び[#「お詫び」は底本では「お詑び」と誤植]に参るのでござりまするか」
「詫び[#「詫び」は底本では「詑び」と誤植]に行くのではない。早乙女主水之介と知って匿まえと申しおったゆえ、直参旗本の意気地を立つるために、あの夜はあのように庇うてつかわしたが、それゆえに天下の重罪人を存ぜぬ事とは言い条、野放しにさせたとあっては、これまた旗本の面目のためほってはおけぬ。どのような不審の廉《かど》ある奴か、奉行所の役人共に聞き訊ねた上で、事と次第によらばこの主水之介が料《りょう》ってつかわすのじゃ」
「分りました。では、お邪魔にござりましょうが、手前もお供にお連れ下さりませ」
「ほほう、そちも参ると申すか。でも、菊が何と申すか、それを聞いた上でなくばわしは知らぬぞ」
「またしてもご冗談ばっかり――それは、それ、これはこれでござりますゆえ、お連れなされて下さりませ。実はあまり家《や》のうちばかりに引き籠ってでござりますゆえ、近頃腕が鳴ってならぬのでござります」
「わしの退屈|病《やまい》にかぶれかかって参ったな。ではよいよい、気ままにいたせ」
 雀躍《じゃくやく》として京弥が供揃いの用意を整えて参りましたので、退屈男は直ちに駕籠を呉服橋の北町御番所めざして打たせることになりました。

       三

 しかし、駕籠が門を出ると同時です。そこの築地《ついじ》を向うにはずれた藪だたみのところに、見るから風体《ふうてい》の汚ないいち人の非人が、午下《ひるさが》りの陽光を浴びて、うつらうつらとその時迄居眠りをつづけていましたが、足音をきくとやにわにむくりと起き上がりながら、胡乱《うろん》なまなざしであとになりつ、先になりつ、駕籠を尾行《つけ》出しましたので、時が時でしたから京弥がいぶかしんでいると、青竹杖をつきつつ、よろよろと近づいて来て、いきなり垂れの中の主水之介に呼びかけました。
「御大身の御方とお見受け申しまして、御合力《ごごうりょく》をいたします。この通り起居《たちい》も不自由な非人めにござりますゆえ、思召しの程お恵みなされて下さりませ」
「汚ない! 寄るなッ、寄るなッ」
 慌てて京弥が制しましたが、非人は屈せずあとを追いかけながら、駕籠側に近よって来ると、再びうるさく呼びかけました。
「汚ない者なればこそ、合力いたすのでござります。そのように御無態《ごむたい》なことを申しませずに、いか程でもよろしゅうござりますゆえ、お恵み下さりませ」
「寄るなと言うたら寄るなッ」
 しかしその刹那《せつな》でした。
「何を吐かしやがるんだッ。ほしいものは金じゃねえ、主水之介の命なんだッ。要らぬ邪魔立てすると、うぬの命もないぞッ」
 突如、非人が意外な罵声《ばせい》をあげると、やにわに懐中からかくしもった種ガ島の短銃を取り出して、駕籠の中をめざしつつ右手《めて》に擬《ぎ》したかと見えましたが、あっと思う間に轟然と打ち放しました。
「馬、馬鹿者ッ、何を致すかッ」
 身には揚心流小太刀の奥義《おうぎ》があっても、何しろ対手の武器は飛び道具でしたから、叫びつつも京弥がたじろいでいるとき、再びぱッときな臭い煙硝《えんしょう》の匂いが散るや一緒で、第二発目が轟然とまた駕籠中目ざしながら放たれました。
 と同時に、何たる不覚であったか、江戸名物退屈男ともあろう者が、思いのほかの不覚さで、脆くも急所をやられでもしたかの如く、ううむ、と言う呻き声を駕籠の中からあげましたので、ぎょッとなったのは言う迄もなく京弥です。
「殿様! 殿様!」
 安否を気づかって駈けよろうとしましたが、と見てそのとき――、
「ざまアみやがれッ。命さえ貰って了えばもう用はないわッ」
 棄て白《せりふ》を残しつつ、不逞の非人が、逸早く逃げ延びようとしかけたので、事は先ず対手を捕えるが急! 京弥のふと心づいたのは手裏剣《しゅりけん》の一手です。
「卑怯者めがッ、待てッ」
 呼びかけるとその右手に擬したるは小柄《こづか》。
「命知らずめッ。うぬも見舞ってほしいか」
 振り返ると非人がまた右手に種ガ島を擬しました。
 一個は大和《やまと》ながらの床しい手裏剣! 他は南蛮渡来《なんばんとらい》の妖《あや》しき種ガ島――茲に緩急《かんきゅう》、二様の飛び道具同士が、はしなくも命を的に優劣雌雄を決することに立到りましたが、勿論、これは贅言《ぜいげん》を費す迄もなく、その武器の優劣と言う点から言えば、手裏剣よりも短銃に七分の利がある筈でした。けれども、いざその雌雄を争う段となれば、事はおよそ命中率の問題です。命中率の問題とならば言う迄もなく武器を使用するものの手練と技が結果を左右する筈なので、いかさま怪しの非人には、七分の利ある種ガ島があるにはあったが、それと同様に、否、むしろそれ以上に京弥にはまた、技の冴えと手練の敏捷さがありました。
 さればこそ、一つはヒュウと唸りを発して、他は轟然と音を発して、両者殆んど同時に各々の敵を目がけながら放たれましたが、まことに多幸! 千年鍛錬の大和ながらなる武道の技の冴えは、遂に俄か渡来の俄か武器に勝って、危うく弾が京弥の耳脇をうしろにそれていった途端、揚心流奥義の生んだ手裏剣が狙い過《あやま》たずブッツリと怪しい非人の太股につきささりましたので、何条いたたまるべき! ――痛手にこらえかねて、身をよろめかしたとき、ひらひらと京弥の小姓袴が、艶《えん》に美しく翻えったと見えましたが、ばっと対手のふところに飛び入ると、刹那に施されたものは遠気当《とおきあ》て身の秘術でした。
「ざまをみろッ、卑怯者ッ」
 ばたりとそこへ非人をのけぞらしておくと、何はともかく主水之介の安否が気がかりでしたから、取り急いで駕籠側へ駈けかえると、何とこはそもいかに! ――悠然と垂れを排しつつ、微笑しいしい姿を見せた者は余人ならぬ退屈男です。しかも、至って事もなげに言うのでした。
「これはどうも、いやはや、ずんと面白いわい。段々と退屈でのうなりおったな」
「では、あの、お怪我をなさったのではござりませなんだか!」
「南蛮の妖器《ようき》ぐらいに、江戸御免の退屈男が、みすみす命失ってなるものかッ。この通り至極息災じゃ」
「でも、ううむと言う、お苦しそうな呻き声があったではござりませぬか!」
「そこじゃそこじゃ。人と人の争いは武器でもない。技ばかりでもない。智恵ぞよ、智恵ぞよ。この主水之介の命など狙う身の程知らずだけあって、愚かな奴めが、わしの兵術にかかったのさ。早くも胡散《うさん》な奴と知ったゆえ、二度目に駕籠脇へ近よろうとした前、篠崎竹雲斎《しのぎきちくうんさい》先生《せんせい》お直伝《じきでん》の兵法をちょっと小出しに致して、ぴたり駕籠の天井に吸いついていたのじゃよ」
「ま! さすがはお殿様にござります。京弥ほとほと感服仕りました」
「いや、そちの手並も、弱年ながらなかなか天晴れじゃ。これでは妹菊めの参るのも無理がないわい。――では、どのような奴か人相一見いたそうか」
 言うと、泡を吹かんばかりに悶絶したままでいる非人の側へ騒がずに歩みよったかと見えましたが、ぱッと片足をあげると、活代《かつがわ》りに、相手の脾腹《ひばら》のあたりを強く蹴返しました。一緒に呼吸をふきかえして、きょときょとあたりを見廻していた非人の面《おもて》をじろりと見眺めていましたが、おどろいたもののごとく言いました。
「よッ。姿かたちこそ非人に扮《つく》っているが、まさしくそなたは前夜のあの町方役人じゃな」
 まことに、意外から奇怪へ、奇怪から意外へ、つづきもつづいた出来事ばかりと言うべきでしたが、気がつくと同時にぎょッと非人のおどろいたのも亦当然なことです。
「しまったッ。さてはまんまと計
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