仇めいた強敵が今ひとり退屈男を待ち伏せしていたのでした。それはあの散茶女郎の水浪で、姿を見るや駈けるようにしてその袖を捕らえにかかりましたので、退屈男は女の言葉がないうちに言いました。
「許せ許せ。先程の約束を果せと言うのであろうが、わしは至って不粋《ぶすい》者でな。女子《おなご》をあやす道を知らぬのじゃ。もうあやまった。許せ許せ」
 言いすてると袖を払って、さっさと道を急ぎました。
 それだのに屋敷へかえりつくや、うなじ迄も赤く染めている菊路の方へ、これも一面の紅葉を散らしている京弥をずいと押しやるようにすると、至って粋《いき》な言葉をぽつりとひとこと、愛撫のこもった揶揄《やゆ》と共に言いました。
「わしの身体はごく都合がようてな、目に見て毒なものがあったり、耳に聞いて毒なものがあったりすると、じき俄盲目《にわかめくら》になったり、俄聾《にわかつんぼ》になったりするゆえ、遠慮せずこの目の前でずんと楽しめよ」
 ――こんな兄はない。ウフフという退屈男の清々《すがすが》しい笑いがはぜて、のどかに夜があけました。そうしてこの小気味のいい男の小気味のいい物語は、これから始まるのです。




前へ 次へ
全43ページ中42ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
佐々木 味津三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング