いて、わちき[#「わちき」に傍点]の身体に傷をつけたら廓《くるわ》五町内が闇になるぞえ、という啖呵《たんか》をちょッと切ると、ひとたまりもなく蜘蛛の子のように逃げ散ってしまうのが普通ですが、どうしたことか、今宵ばかりは、不都合なことにも花魁太夫《おいらんだゆう》達に、ひとりもお茶を引いているのがいないと見えて、そのお定まりの留め女すらも現れない生憎《あいにく》さでした。
 と――、誰が言い出したものかその時群集の中から、残念そうに呟いた伝法な声がきこえました。
「畜生ッ、くやしいな! こういう時にこそ、長割下水《ながわりげすい》のお殿様が来るといいのにな」
「違げえねえ違げえねえ。いつももう、お出ましの刻限だのにな」
 誰の事かよく分らないが、この呟きで察すると、長割下水のお殿様なる者は、よッ程この五町街では異常な人気があるらしいのです。しかし騒ぎの方は、それらのざわめきが聞えるのか聞えないのか、なおしつこく四人の者がひたすらにわび入っている若衆髷をいじめつづけるのでした。
「馬鹿者ッ。詫び[#「詫び」は底本では「詑び」と誤植]たとて免《ゆる》さぬと言うたら免さぬわッ。さ! 抜けッ。抜かずばブッタ斬るぞッ」
 威丈高《いたけだか》にわめき立てると、執拗《しつよう》な上にも執拗に挑《いど》みかかりましたので、等しく群衆がはらはらと手に汗をにぎった途端――。
「あっ! お越しのようでござりまするぞ! お越しのようでござりまするぞ! な、ほら長割下水のお殿様のようでござりまするぞ!」
「え? ど、どう、どこに? ――なる程ね、お殿様らしゅうござんすね」
「そうですよ。そうですよ。あの歩き方がお殿様そっくりですよ」
 愁眉《しゅうび》を開いたかのごとくに群集の中から叫んだ声が挙がったかと思われるや同時に、いかさま仲之町通りを大門口の方から悠然とふところ手をやって、こちらにのっしのっしと歩いて来る一個の影がありました。それも尋常普通の人影ではない。背丈なら凡《およ》そ五尺六寸、上背のあるその長身に、蝋色《ろいろ》鞘の長い奴をずっと落して差して、身分を包むためからか、面《おもて》は宗十郎頭巾に深々とかくしながら、黒羽二重を着流しの、素足に意気な雪駄ばきというりりしい姿です。
 それと見て駈け寄ったのは、お通し物の出前持かなんかであるらしい伝法な兄哥でした。もう顔馴染ででもあるか
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