がふたりこっそりと出てくるからな、出たらすぐに知らせておくれ」
「見張りをするのかい」
「そうよ。なかなかわかりがいい。だから、向こうに見つからねえようにしなくちゃいけねえぜ。おじさんは、ほら、みろ、そこの川の中に小船があるだろう。あの中に寝ているから、万事抜からねえようにやるんだぜ」
「あいきた。わかったよ。出てきたら、合い図にあのうちの前の土手でちょうちんを振るからね。すぐに来ておくれよ」
小ざるのように飛んでいったのを見送りながら、つなぎ捨ての小船の中へ降りていくと、身を忍ばせて合い図を待ちうけました。
事ここにいたっては、伝六ももう鳴りどころの騒ぎではないのです。船へはいるから十手にうねりをうたせて、いまかいまかと目をさらにしながら待ち構えました。
のび上がり、のび上がり、待ちわびているうちに、四半刻、半刻と夜が沈んで、しだいにしんしんとふけ渡りました。家のあかりもまた一軒一軒と消えていって、ふわり、ふわりとえり首をなでる夜風の気味わるさ、ぱったりと人影もなくなりました。
もうそろそろ合い図があってもいいころです。
と思ったせつな――ちらちらとはげしく土手の向こうであかりが動きました。
「それ、きたぞ! さあ来い! お櫃娘《ひつむすめ》、すべって川におっこちますなよ」
ぱっとこうもりのように飛び出した伝六のあとから、ひたひたと名人も足音ころして追いかけました。
「どっちだ!」
「あそこ! あそこ! あのへいかどを左へ曲がっていくふたりがそうですよ」
てがら顔に辻占売りが指さしたやみの向こうを見すかすと、なるほど二つの黒い影が急いでいるのです。
ふたりともにすっぽりと、お高祖頭巾《こそずきん》でおもてをかくしていたが、前を行くやせ型のすらりとした影こそは、まさしくあの娘の千萩《ちはぎ》でした。しかも、うわさのとおり、大きなお櫃《ひつ》をかかえているのです。
「懐剣を持っているな」
「懐剣!」
「あのうしろを守って行く女中のかっこうを見ろ。左手で胸のところをしっかり握っているあんばいは、たしかに懐剣だ。どうやら、こいつは思いのほかの大物かも知れねえぜ」
ぴんと名人の胸先にひらめいたのは、――血! 血! 血! あの軸物に降るいぶかしい生血のことでした。
娘のかかえている不思議なお櫃は、血を入れるお櫃かもしれないのです。うしろの女中の懐剣は、その血をとりにいく懐剣かもしれないのです。
生き血を盗みに行く娘。
犬の血か? 人の血か?
左右をすかしつ、見つつ、人目を恐れるようにひたひたと急いでいく様子は、ともかくもなにか大きな秘密を持っているにちがいないのです。
「だいじなどたん場だ。声を出したらしめ殺すぞ」
「だ、だ、だ、だいじょうぶ。なんだか変なこころもちになりやがって、出したくとも、で、で、出ねえんですよ……」
震え声にもうちぢみあがっている伝六を従えながら、注意深く影を隠してふたりのあとをつけました。
5
ひと曲がり、ふた曲がり、三曲がりと曲がって、忍びに忍びながら、ふたつの影は、通り新石町をまっすぐに柳原へかかりました。
右は籾倉《もみぐら》、左は土手。
さびしいその柳原堤に沿って下ると、和泉橋《いずみばし》です。櫃《ひつ》をかかえた影を先に、二、三尺離れて女中の影がこれを守りながら、ふたりの女は、その和泉橋からくるりと左へ折れました。
同時のように、ふたりは、にわかにあたりへ注意を配りはじめましたが、目ざした場所が近づいた証拠なのです。
と思うまもなく、ふたつの影は、そこの松永町《まつながちょう》の横通りをはいった福仙寺《ふくせんじ》の境内へ、ひらひらと吸われるように駆けこみました。
「ちくしょう。墓だ! 墓だ! 新墓をあばいて、死人の血を絞りに来たにちげえねえですぜ」
「黙ってろい。しゃべらねえという約束じゃねえか。聞こえて逃げたらどうするんだ」
「だ、だ、だまっていてえんだが、あんまり気味のわりいまねばかりしやがるんで、ひとりでに音が出るんですよ。埋めたばかりの死人なら、血の一合や二合絞り取れねえってえはずはねえんだ。きっと、新墓をねらいに来たんですぜ」
だが、ふたりのはいっていったところは、意外なことにも本堂なのです。しかも、ここへ来ればもうだいじょうぶといわぬばかりに、足音さえも高めて、須弥壇《しゅみだん》の横からどんどん奥へぬけると、かって知ったもののように、がらがらとそこの網戸をあけながら位牌堂《いはいどう》の中へはいって、ぴたりとまた戸を締めきりました。
中にはうすぼんやりとお燈明が二つともっているのです。戸もまた板戸ではなく網戸なのです。のぞけば網目を通して、おぼろげながらも中の様子が見られたが、しかし、うっかりのぞいたらこちらの顔も見つけられる危険があるのです。のぞきたいのをこらえて、ふたりはそこへうずくまりながら、じっと息をころして聞き耳立てました。
同時のように、娘の千萩のほそくなまめかしい引き入れられそうな声が耳を制しました[#ママ]。
「お待ちかねでしたでしょう。千さま、もういいですよ。早くいっていらっしゃい……」
「…………」
「いいえ。だいじょうぶ。だれも見ちゃいないから、こわいことなんぞありませんよ。ええ、そう、――そう。まあ、かわいらしい。わたしにあいさつしていらっしゃるの。長遊びしちゃいけませんよ。早く帰っていらっしゃいね……」
声といっしょに、するする、とかすかなきぬずれのような音がありました。
右門主従は、おもわず息をのみました。のぞきたいのをけんめいにこらえて、じっと耳をすましながら、中のけはいをうかがいました。
と思うまもなく、かたことと、位牌《いはい》でもが動くような物音があがりました。同時に、ちゅうちゅうと、まさしくねずみの鳴きもがきでもするような異様な声が伝わりました。あとから千萩の透き通るような声がまた耳を刺しました。
「まあ。おてがらおてがら。千さま。おみごとですよ。もういいでしょう。早くいらっしゃい。来なければしかりますよ」
せつなです。名人主従は、引き入れられるようなその声につられて、われ知らずにさっと身を起こしました。しかし、同時に、右門も伝六も、おもわずぞっと身の毛がよだちました。
へびです。へびなのです。大きなねずみをあんぐりとくわえて、位牌の間から長いかま首をぬっともたげながらのぞいているのです。
いましがたちゅうちゅうと鳴きもがいたのは、じつにそのかま首がくわえているねずみなのでした。なまめかしい声で今、千萩が話をした相手も、そのへびなのでした。お櫃の中の正体も、またその長虫なのでした。
へびを飼う娘!
へびと話をする娘!
意外な秘密を隠していた奇怪なお櫃《ひつ》は、意外ななぞを生んだのです。とみるまに、長虫はあんぐりとねずみをくわえたままで、ぬるぬると千萩の足もとへはいよると、なにかの化身のようにかま首をもたげながら、黒光りしている長いからだをその足へしきりとすりつけていたが、そのままするするとお櫃の中へはいこみました。
伝六はもとよりのこと、さすがの名人も全身あわつぶだって、そこへ立ちすくんだままでした。それにしても、あの床の間へ降った血の出どころが不思議です。櫃に隠れた今のへびが降らせるとも思えないのです。
しかし、そのとき、くぎづけになったように立ちすくんでいるふたりをおどろかして、とつぜん、庫裡《くり》の向こうから、ばたばたと人の足音が近づきました。ふたりは、はっとなって須弥壇《しゅみだん》の横へ身を隠すと、怪しみながら近づいた影を見すかしました。
年は二十三、四。寺の者ではない、町人でもない、侍でもない、なにものかかいもく素姓のわからぬ不思議な若い男なのです。なにをいきどおっているのか、憤怒《ふんぬ》に目を光らして、荒々しく位牌堂の中へ飛び込んでいくと、やにわに千萩をにらみつけながら、あびせました。
「聞き分けのないおかたでござりまするな! あれほどいったのに、まだおやめなさらないのでござりますか!」
「…………」
「こんなものを飼えば、こんな気味のわるいものを飼ったら、なにがおもしろいのでござります! どこがかわいいのでござります」
なじるようにいったのを、しかし千萩はひとことも答えないで、悲しげに微笑しながら、取り合うのも煩わしそうに目をそらしました。
なにかふたりの間に、秘密のつながりがあるに相違ないのです。もうためらっている場合ではない。ひらりとわき出たように姿を見せると、黙って近づいて、黙って名人は千萩の前に立ちふさがりました。
「あッ。あなたは……! あなたさまは……!」
「右門でござる。さきほどはお宅の二階でお騒がせいたしましたな」
不意を打たれて、千萩はまっさおに色を変えると、なによりもというように、うろたえながら足もとのお櫃にあわててふたをきせました。しかし、もうおそいのです。名人の射るような声と目が、ぶきみに笑ってその胸を貫きました。
「始終の様子は、のこらず見せていただきました。とんだにょろにょろとした隠し男をおかわいがりでござりまするな」
「ではもう……ではもう、なにもかも……」
「聞きもいたしましたし、詳しく拝見もいたしましたゆえ、ここらが潮どきとおじゃまに出てきたんでござんす。虫も殺さぬようなお美しい顔をしておいでなすって、あんまり人騒がせをするもんじゃござんせんよ。いま聞きゃ、こっちのこの若いおかたと、なにかいわくがありそうでござんすが、なにをいったい、どうしたというんでござんす。あれほどいったのに、まだやめないかと、たいへんこちらがおしかりのようでしたが、このかたはいったい、どういう掛かり合いのおかたなんです」
「…………」
「え? お嬢さま!」
「…………」
「じれったいね、むっつりの右門といわれるあっしが耳に入れて、このとおりにょろにょろとはい出してきたんです。櫃の中の大将に比べりゃかま首もみじけえし、からだもみじけえが、目はもっと光っているんだ。手間を取らせねえほうがおためですぜ。え? お嬢さん! はきはきいったらどんなものでござんす」
たたみかけたことばに、千萩はわなわなと身を震わせていたが、とつぜん、おもてを伏せると、しみ入るような声をあげて、すすり泣きだしました。
聞いていて、右門ということに気がついたとみえるのです。横から不審な若い男が割ってはいると、これさいわいというように口をはさみました。
「わたくしが申しましょう。あなたさまなら大事ござりますまい。そのかわり、くれぐれもご内密に頼みますぞ」
「そなた何もかもご存じか」
「知っている段ではござりませぬ。その女は、千萩は、なにを隠しましょう。このわたくしの妻たるべき女でござります」
「おいいなずけか!」
「そうでござります。どういうお詮議《せんぎ》で塗町の父のほうへ参られましたか知りませぬが、てまえはあの岡三庵《おかさんあん》のせがれでござります。血を分け合った一粒種の三之助《さんのすけ》と申すものでござります」
「なに、ご子息!――なるほど、そうか。道理で、さきほど家族しらべをしたおり、ほかに子はない、この娘ひとりきりじゃと、しどろもどろにいった様子がちとおかしいとにらんでおったが、やっぱり隠し子がありましたな。血を分けた実のせがれが家を出て、いいなずけの女が娘同様家におるとは、なんぞ深い子細がござろう。それが聞きたい。どうしてまた、そなたは家を出ておるのじゃ。夜遊びでも高じて、勘当でもされましたか」
「めっそうもござりませぬ。それもこれもみんな、もとはといえば、千萩のこの気味のわるい病気ゆえでござります。こうなりますればもう、千萩の素姓も申しましょうが、この女は、わたくしの父三庵が、書生のうちからかわいがられて、今のような医業を授けていただいたたいせつな先生の、お師匠さまの忘れ形見なのでござります。年をとってからこの千萩をもうけて、まだ成人もせぬうちにご他界なさいましたゆえ、父の三庵が子ども同様にして引きとり、わたくしともいいなずけ
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