の約束を取りかわし、四年まえまで一つ家に育ってきたのでござりまするが、なんの因果か、千萩めがちいさいうちから、こんなものを、こんな気味のわるい長虫をかわいがって、昼も夜もそばを離さないのでござります。それゆえ――」
「そなたがきらって家出をしたと申されるか」
「一口に申さばそうなんでござります。一匹や二匹ではござりませぬ。多いときは七匹も八匹も飼って、死ねばとっかえとっかえ、またどこからか手に入れて、あげくのはてには、夜一つふとんへ抱いて寝るような始末でござりましたゆえ、ほかの生き物とはちがうのじゃ、人のきらう長虫なのじゃ、いいかげんにおやめなされと、口のすっぱくなるほどいさめたのでござりまするが、どうあっても聞き入れないのでござります。父からしかってもらいましょうと、父に申したところ、その父がまたいっこうにわたくしの味方となってくれないのでござります。たわけを申すな、だれのお嬢さまと思っておるのじゃ、わしにとってはかけ替えのないご恩人の娘じゃ、先生の娘じゃ、お師匠さまの忘れ形見じゃ、わしが一人まえの医者になれたのも、みんな千萩どののおとうさまのたまものじゃ、恩人の娘に意見ができるか、バカ者、ほかの男を抱いて寝るとでもいうなら格別、長虫をかわいがるくらい、がまんができなくてどうなるのじゃ、おまえがいやなら、たって添いとげてもらわなくともいい、ほかから養子を迎えて千萩に跡目を継がせるから、気に入らずばどこへでも出ていけと、実の子のわたくしをかえってしかりつける始末なのでござります。くやしいのをこらえて、三度、五度と千萩にも頼み、父にも頼みましたが、いっこうにわたくしのいうことなぞ取りあげてくれませぬゆえ、ええままよ、恩じゃ、義理じゃ、先生の娘じゃと、他人の子をわがままいっぱいに育てて、実の子をそでにするような親なら、かってにしろとばかり、家を飛び出し、こっそりと長崎《ながさき》へくだって、きょうが日までの丸四年、死に身になって医業を励み、どうにかこうにか一人まえの医者となって、つい十日ほどまえにこっそりまた江戸に帰ってまいったのでござります。帰ってきて、それとなく千萩の様子を見ますると、このとおりだんだんと年ごろになってはいるし、四年まえとはうって変わって、どことのう――」
「美しくなっていたゆえ、また未練が出てきたというのじゃな」
「お恥ずかしゅうござります。未練といえば未練でござりまするが、いいなずけの約束までした女じゃ、他人にとられとうはない。けれども気味のわるい長虫はいまだにやめぬ、――どうしたものかと迷っていたやさき、さいわいなことに、ここの寺はてまえたち一家の菩提寺《ぼだいじ》なのでござります。千萩がまたこの寺へ毎夜毎夜へびのえさのねずみ取りに来ることをかぎ知り、こっそりとこの寺に寝泊まりしておりまして、このとおり、毎夜毎夜ころあいを見計らっては意見に来ますけれど、千萩は相手になってもくれないのでござります。こんなものの、こんな長虫のどこがかわいいのか。く、くやしくてなりませぬ。千、千萩めが、うらめしゅうてなりませぬ……」
美しいだけに、なお一倍千萩の長虫いじりがくやしくてならないとみえて、三之助はじわりと目がしらへ涙さえ浮かべながら、うらめしそうに、足もとのお櫃《ひつ》をにらみすえました。――目をおおい、おもてを伏せて、千萩も消え入りたげな忍び音をあげながら、しくしくと泣き入りました。
意外な秘密が隠れていたのです。
しかし、それにしても、床へ降ったあの血が奇怪でした。だれがしたたらしたか、千萩か? それとも三之助か――残ったなぞは、それ一つなのです。名人のさえた声が、とつぜん、えぐるように襲いました。
「憎いか! 三之助!」
「は……」
「千萩は憎いかときいておるのじゃ」
「こ、恋しゅうござります。いいえ、うらめしゅうござります。こんなに思うておるのに、人の心を知らない千萩が、ただただうらめしゅうござります……いいえ! いいえ! 千萩よりも父が憎い! 親が憎い! 実の子を捨てても他人の子をかばうような、父が、親が、もっともっとうらめしゅうござります……」
「そうか! 親が憎いか! 父がうらめしいか! では、おまえだな!」
その恨めしさのあまりにやったいたずらにちがいないのです。名人の声が刺すように三之助の胸をつきえぐりました。
「隠しても目は光っているぞ! おまえがあんないたずらしたんだろう」
「気、気味のわるい。不意になんでござります! あんないたずらとは、なんのことでござります」
「しらっばくれるな! 父が憎い、親がうらめしいと、今その口でいったはずだ。他人の子をかばって自分を追ん出した腹いせに、あんないたずらをしたんだろう!」
「な、な、なんのことでござります! いっこうてまえにはわかりませぬが、何をお疑いなさっているんでござります!」
「血だ! 床の間へたらしたあの血のことなんだ!」
「血! 床の間の血……?」
ぎょっとなって、おどろきでもするかと思いのほかに、三之助はけげんそうな顔をしているのです。ばかりか、まあどうしたんでござりましょう、――というように、そばから、千萩もおもてをあげて、泣きぬれた目をみはりました。
名人もいささかずぼしがはずれて、意外そうにふたりの顔を見比べました。目のいろ、顔のいろ、三之助にうそはない。千萩にも疑わしい色は見えないのです。それのみか、急に三之助がいとしくなりでもしたように、ぬれたひとみへ情熱の光をたたえて、微笑すらもかわしているのです。
「へへえ……とんだ長いしっぽがお櫃の中から出たかと思ったら、またにょろりと隠れてしまったか。――どうやら、こいつあ難物だよ。来い! あにい! なにをまごまごしているんだ」
「へ……?」
「へじゃないよ。新規まき直し、狂ったことのねえ眼《がん》が狂ったから、出直さなくちゃならねえといってるんだ。まごまごしねえで、ついてきなよ」
「まごまごしているのは、あっしじゃねえですよ。ばかばかしい。だんなこそまごまごして、どこへ行くんですかよ。そんなところは出口じゃねえんです。木魚ですよ。外へ出るなら、ここをこう曲がって、こっちへ出るんですよ」
どこに出口があるか、どっちへ道が曲がっているか、霧の中をでも歩くようなこころもちで、名人はしんしんと考えこんだままでした。
不思議は不思議につづき、ぶきみはぶきみにつづいて、しかも血のなぞは、いよいよ深い迷霧の中へはいってしまったのです。
家族以外の者……? いや断じてそんなはずはない。丹念にあのとき調べたとおり、外からあの二階へはいりうる足場は皆無でした。家人の目をくらまして押し入ったら格別、でないかぎりは、どうあっても岡三庵一家のものにちがいないのです。しかし、その家族のものは、宵のあの裏返しでためしたとおり、書生、代診、母親、女中、だれひとりそれと疑わしい顔いろさえ変えたものもないのでした。わずかにひとりあった娘の千萩は、血をたらすどころか、生き血を吸いたがるとんだ長虫を飼っていたのです。あのときあんなに震えたのは、その秘密を知られたくないために、われしらずおびえたにちがいないのです。しかも、その秘密の長い尾につながっていた三之助も、あの目、あのいろ、あの様子では、どこに一つ疑わしいところはないのでした。なぞの雲は、はてしもなく深くなったのです。
考え迷い、考え迷って、いつどこを歩いたとも知らないように歩いてきた名人は、ぴたりとそこの和泉橋《いずみばし》の上に立ち止まると、くぎづけになったようにたたずんだまま、しんしんとまた考えこみました。
6
夜もまたまったくふけ渡って、星もいつのまにか消えたか、深夜の空はまっくらでした。
影もない。音もない。思い出したようにざわざわと吹き渡る川風が、なまあったかくふわりふわりと、人の息のようにえり首をなでて通りました。
遺恨あってのしわざか? いたずらか……?
それすらもわからないのです。つかみどころがないのです。
思い出したように、また川風がふわりふわりとなでて通りました。あざけるように橋の下で、びちゃびちゃと川波が鳴りました。
名人はしんしんと考えつづけたままでした。
考えているうちに、しかし、名人の手はいつのまにか、そろりそろりとあのあごをなではじめました。――せつなです。
「アハハハ。なんでえ、つまらねえ。あんまり考えすぎるから、事がむずかしくなるんだ。手はいくらでもあるじゃねえかよ。ばかばかしい。アハハ……アハハ……」
吹きあげたように、とつぜん大きく笑いだしたかと思うと、さわやかな声がのぼりました。
「ねえ、あにい!」
「…………」
「あにいといってるんだ。いねえのかよ、伝六」
「い、い、いるんですよ。ここにひとりおるんですよ。気味のわるいほど考えこんでしまったんで、どうなることかとこっちも息を殺していたんです。いたら、いきなりぱんぱんと笑いだしたんで、気が遠くなったんですよ。あっしがここにおったら、なにがどうしたというんです」
「どうもしねえさ。岡の三庵先生は何商売だったっけな」
「医者じゃねえですかよ」
「医者なら、血があったって不思議はねえだろう」
「だれも不思議だといやしませんよ。おできも切りゃ、血の出る傷も手当をするのがお医者の一つ芸なんだ。医者のうちに血があったら、なにがどうしたというんですかよ」
「血をいじくるが稼業《かぎょう》なら、血を始末するかめかおけがあるだろうというのさ。どう考えたって、あの床の間へ降った血は、外から忍びこんできたいたずらのしわざじゃねえ。たしかに、あの家の者がやったにちげえねえんだ。その血も、十中八、九、おけかかめにためてある病人の血を塗ったものに相違あるめえというんだよ。だから、血がめにえさをたれに行くのよ。ついてきな」
「えさ……?」
「変な声を出さなくともいいんだよ。そういうまにも、また今夜血を降らされちゃ事がめんどうだ。早いことえさをたれておかなくちゃならねえから、とっととついてきな」
なにか目ざましい右門流を思いついたとみえるのです。飛ぶように夜ふけの町をぬけて、岡三庵の屋敷通りの塗町《ぬしちょう》へ曲がっていくと、軒をそろえてずらりと並んでいるそこの塗屋《ぬしや》の一軒へずかずかと近づいていって、いつにもなく御用名を名のりながら、どんどんたたき起こしました。
「八丁堀の右門じゃ。御用の筋がある。早くあけろ」
あわてうろたえながら丁松らしいのがあけたのを待ちうけて、ずいと中へはいると、やにわに不思議な品を求めました。
「生うるしがあるだろう。なにか小つぼに入れて少しよこせ」
塗町とまで名のついた町の塗屋なのです。生うるしがないはずはない。なにごとかというように筆まで添えて、小つぼに入れながら持ってきたのを片手にすると、そのままさっさと岡三庵の屋敷まえへ取ってかえして、せきたてながら伝六に命じました。
「おめえの一つ芸だ。はええところ血がめのありかを捜してきなよ」
「…………?」
「なにをまごまごしてるんだ。内庭か、外庭か、どっちにしても外科べやの近所の庭先にちげえねえ。あり場所さえわかりゃ、おいらがちょいとおまじないするんだ。大急ぎで捜してこなくちゃ、夜が明けるじゃねえかよ」
ひねりひねり、横路地のくぐり木戸からはいっていくと、中べいを乗り越えてでもいるとみえて、しばらくがさがさという音がつづいていたが、ぽっかりとまた顔をのぞかせると、息をころしながら名人のそでを引きました。
伝六一つ芸の名に恥じず、中べいを乗り越えていってみると、案の定、内庭と外庭との境になっている外科べやの小窓下に、ねらいをつけたその血がめがあるのです。ふたをあけてみると、中はぐっちゃり……なまぐさい異臭がぷうんと鼻を刺しました。
「このどろりとしたやつをちょっぴり棒切れにでもつけていきゃ、床の間にだって、天井にだって、自由自在に血が降らあ。では、ひとつ右門流のえびでたいをつろうよ。そっちへどきな」
今のさき求めてきた用意の生うるしを筆にしめすと、何を
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