かと影が近よりました。
年のころ二十八、九の若い武家です。
なれなれしげに名人のそばへ歩みよると、なれなれしげに呼びかけました。
「さきほどは失礼、めぼしがおつきか」
「さきほどと申しますると?」
「もうお忘れか。けさほど駆け込んでいったは、このてまえじゃ」
「ああ、なるほど、そなたでござったか。貴殿ならばなおけっこうでござる。どうやらめぼしがつきましたが、ちと不思議なものでやけどをしておりますゆえ、お尋ねせねばなりませぬ。お隠しなさらば詮議《せんぎ》の妨げ、隠さずにおあかしくださりませよ。よろしゅうござりましょうな」
「申す段ではござらぬ。お尋ねはどんなことじゃ」
「加賀さまの献上雪は、たしか毎年いまごろお取り寄せのように承っておりますが、もうお国もとからお運びでござりまするか」
「運んだ段ではない。知ってのとおり、あれは日中を忌むゆえ、夜道に夜道をつづけて、ちょうどゆうべこの裏門から運び入れたばかりじゃ」
「やっぱりそうでござりましたか。たぶんもうお運びとにらみをつけたのでござりまするが、ようようそれでなぞが一つ解けました。おどろいてはなりませぬぞ。この変死人は、その雪で死にましたぞ」
「なに! 雪!――そうか! 雪で死んだと申されるか。道理でのう。凍え死んだ者はやけどそっくりじゃとか聞いておったが、雪か! 雪であったか……!」
いまさらのように目を丸めました。――献上雪は加賀百万石の名物、同時にまた江戸名物の一つです。将軍家とても夏暑いのにお変わりはない。そのお口をいやすために、加賀大納言が、加《か》、越《えつ》、能《のう》、百万石の威勢にかけて、冬、お国もとで雪を凍らせ、道中金に糸目をつけずにこれを江戸ご本邸に運ばせて、本郷のこのお屋敷内の雪室深くへ夏までたくわえ、土用さなかの黄道吉日を選んで柳営に献上するのが毎年の吉例でした。召しあがるのはせいぜいふた口か三口のことであろうが、おあがりになるおかたは八百万石の将軍家、献上するのは百万石の大納言、事が大きいのです。それをずばりと、ただのひとにらみでにらんだ名人の眼《がん》のさえもまた、たぐいなくすばらしいことでした。
しかし、それでなぞが解けきったのではない。第一は、この変死の裏に、なにごとか恐ろしいたくらみと秘密があるかないかの詮議《せんぎ》です。恐ろしい秘密があるとしたら、なにもののしわざか、第二に起こるなぞは、いわずと知れたその詮議です。
第三には、変死人の素姓。
それと顔いろを読みとって、ここぞとばかりしゃきり出たのは伝六でした。
「あのえ。だんな。少々ものをお尋ねいたしますがね」
「なんだ。うるさい」
「いいえ、うるさかねえ。さすがにえらいもんさ。ちょいとにらんだかと思うと、こいつア雪だとばかり、たちまち眼をつけるんだからね。あっしも雪で死んだに不足はねえが、それにしたって、なにも人が殺したとはかぎらねえんだ。自分で雪にはまったって、けっこう死ねるんだからね。気に入らねえのはそれですよ。えらそうなことをいって、もしもてめえがすき好んで凍え死んだのだったら、どうなさるんですかえ」
「しようのねえやつだな。そんなことがわからなくてどうするんだ。ひと目見りゃ、ちゃんとわかるじゃねえかよ。自分ではまって死んだものが、こんな道ばたにころがっているかい。加賀さまの雪室は、たしか七つおありのはずだ。ゆうべ運び入れたどさくさまぎれに、そのどれかへこかしこんでおいて、夜中か明けがたか、凍え死んだのを見すましてから、そしらぬ顔でここへひっころがしておいたに決まっているんだ。そんなことより、下手人の詮議がだいじだ。そっちへ引っこんでいな」
知りたいのはまずその素姓です。ぼうぜんとしてたたずんでいる加賀家の若侍のそばへ歩みよると、なにか手づるを引き出そうというように、やんわりと問いかけました。
「なにもかも正直におあかしくだされましよ。けさほど八丁堀へわざわざおいでのことといい、こうして今ここへお立ち会いのご様子といい、特別になにかご心配のようでござりますが、貴殿、このご仁とお知り合いでござりまするか」
「同役じゃ」
「なるほど、同じ加賀家のご同役でござりまするか。このおきのどくな最期をとげたおかたは、なんという名まえでござります」
「松坂|甚吾《じんご》とおいいじゃ」
「お役は何でござります」
「奥祐筆《おくゆうひつ》じゃ」
「奥祐筆……! なるほど、そうでござりましたか」
名人の胸にぴんとよみがえったのは、朝ほどのあの絵図面の字のうますぎたことでした。どうやら、本筋のにおいがしかけてきたのです。
「なるほど、ご祐筆とあっては、ご兄妹《きょうだい》でござりまするかおつれ合いでござりまするか知りませぬが、お身よりのご婦人も字がうまいのはあたりまえでござりましょう。あの
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