絵図面をお書きになったご婦人は、この松坂様の何に当たるおかたでござります」
「あの書き手を女とお見破りか!」
「見破ったればこそお尋ねするのでござります。お妹ごでござりまするか」
「いいや、ご内儀じゃ」
「ほほう、ご家内でござりまするか。お年は?」
「わこうござる」
「いくつぐらいでござります」
「二十三、四のはずじゃ」
「お顔は?」
「上の部じゃ」
「なに、上の部!――なるほど、美人でござりまするか。美人とすると――」
事、穏やかでない。いくつかの不審が、急激にわきあがりました。
第一、夫がここで変死をしているというのに、妻なる人がちらりとも顔すら見せないことが不思議です。
妻さえも顔を見せないというのに、目の前のこの若侍が、ただの同役というだけでかくのごとくに力こぶを入れているのが不思議です。
第三に不審は、いまだに加賀家家中のものがひとりも顔をみせないことでした。これだけ騒いでいるのに、しかも変死を遂げているのは奥仕えの祐筆であるというのに、その加賀家が知らぬ顔であるという法はない。がぜん、名人の目は光ってきたのです。
「雪が口をきかねえと思ったら大違いだ。そのご内室に会いとうござりまするが、お住まいはどちらでござります」
「住まいはついこの道向こうのあの外お長屋じゃが、会うならばわざわざお出かけなさるには及ばぬ。さきほどから人ごみに隠れて、その辺においでのはずじゃ」
「なに、おいででござりまするか。それはなにより、どこでござります。どのおかたがそうでございます」
「どのおかたもこのおかたもない。てまえといっしょに参って、ついいましがたまでその辺に隠れていたはずじゃが――はてな。おりませぬな。おこよどの! おこよどの……! どこへお行きじゃ。おこよどの!」
おこよというのがその名とみえて、人ごみをかき分けながら、しきりにあちらこちらを捜していたその若侍が、とつぜん、あっとけたたましい叫び声を放って、どたりとそこへ打ち倒れました。
矢です。矢です。
どこから飛んできたのか、ぷつりとそののどに刺さったのです。
「ちくしょうッ。さあ、いけねえ! さあ、たいへんだ! まごまごしちゃだめですよ! だんな! そっちじゃねえ、こっちですよ! いいえ、あっちですよ!」
いう伝六がことごとく肝をつぶして、あちらにまごまご、こちらにまごまご、ひとりでわめきながら駆け回りました。そのあとから群集もうろうろと走りまわって、さながらにはちの巣をつついたような騒ぎでした。
しかし、むっつりの名人ひとりは、にやにやと笑っているのです。
「くやしいね。なにがおかしいんですかよ! 笑いごっちゃねえですよ! 矢が来たんだ。矢が! 大将のどから血あぶくを出しているんですよ!」
「もう死んだかい」
「なにをおちついているんですかよ! せっかくの手づるを玉なしにしちゃなるめえと思うからこそ、あわてているんじゃねえですか。のそのそしていりゃ死んでしまうんですよ!」
「ほほう。なるほど、もうあの世へ行きかけているな。しようがねえ、死なしておくさ」
じつに言いようもなくおちついているのです。のっそり近よると、騒ぐ色もなくじいっと目を光らして、その矢の方向を見しらべました。
左からではない。
右から来て刺さっているのです。左は加賀家の屋敷だが、その右は、道一つ隔てて、すぐに引祥寺のへいつづきでした。
へいを越して、方角をたどって、のびあがりながら寺の境内を見しらべると、ある、ある。距離はちょうど射ごろの十二、三間、上からねらって射掛けるにはかっこうの高い鐘楼が見えるのです。
「よし、もう当たりはついた。騒ぐにゃ及ばねえ[#「及ばねえ」は底本では「及ばねね」]。死骸《しがい》にも用はねえ。若侍もこときれたようだから、仏たちはふたりともおまえらが運んでいって預かっておきな。加賀家から何か苦情があるかもしれねえが、こんりんざい渡しちゃならねえぜ。いいかい、忘れるなよ」
居合わした自身番の小者たちへ命じておくと、その場に鐘楼詮議を始めるだろうと思いのほかに、くるりと向きかえりながら、加賀家外お長屋を目ざして、さっさと急ぎました。
3
「腹がたつね。どこへ行くんですかよ! どこへ! 鐘楼はどうするんです! 矢はどうするんです!」
型のごとくに、たちまちお株を始めたのは、伝六屋の鳴り男です。
「ものをおっしゃい! ものを……! くやしいね。いまさらお長屋なんぞへいったって、むだぼねおりなんだ。矢が来たんですよ! 矢が! 質屋の吹き矢の矢とは矢が違うんだ。ぷつりと刺さって血が出たからには、どやつかあの鐘楼の上からねらって射かけたにちげえねえんですよ。はええところあっちを詮議したほうが近道じゃねえですかよ」
「うるせえな。黙ってろい」
やか
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