ながら、へやのすみの壁ぎわに、必死と身を寄せて、美しい虫のように泣き伏している女こそ、まさしくあのおこよにちがいないのでした。
 そのこちらにひとり、床を背にしてひとり。――どっかりとすわっているからだの節々に、武芸者らしい筋骨の鍛えが見えるところをみると、そやつこそ、まぎれもなく弓術師範依田重三郎に相違ないのです。こちらの白っぽい男は、いわずと知れた祐筆頭《ゆうひつがしら》大口三郎でした。
 ぎょっとなったように、そのふたりがふり向いて身構えたのを、ずいとはいっていくと、静かな声でした。
「よからぬことをおやりじゃな」
「なにッ。どこの青僧だ!」
「知らねえのかい。おいらがむっつりのなんとかいう名物男さ、覚えておきな」
 いうかいわないかのせつなです。
 パッと地をけって、身を起こしたかと思うと、依田の重三郎、さすがに身のさばきあざやかでした。
 猿臂《えんぴ》を伸ばしてうしろの床の間の飾り弓を手にとる、弦を張る、一瞬の間に矢をつがえると、
「問答無用じゃ。うぬが来たとあっては、これがよかろう! 受けてみろッ」
 叫んだのといっしょに、矢さばき弓勢《ゆんぜい》もまたみごと、名人ののど首ねらって、きりきりと引きしぼりました。
 危うし!
 まさに一|箭《せん》、はっしと射放たれたかと見えたせつな、むっつりの名人また、身のさばきみごとです。つうつうと身を走らせて、依田の重三郎が射構えた右前深くへさっとはいりました。と見てか、重三郎がくるりとねじ向きながら構え直そうとしたのを、また右へ、あせって向き直りながらまた射構えようとしたのを、また右へ、向けば右へ、構えれば右へ、右へ右へと避けてははいる身の軽さ、足の早さ、じつにあざやかでした。
 まことやこれこそ剣の奥義、抜きこそしないが、弓にむかって剣を得物に立ち向かうには、その右前、右前とはいるのが奥義中の奥義でした。左へ立ったり、左へ回っていたら、左手と書いて弓手《ゆんで》と読ませるくらいです。避けるひま、防ぐひまもないうちに射放たれるのです。さすがはむっつりの名人、剣の道、武道の奥義、弓矢の道もまた名人でした。
 つつう、つつうと矢面を避けながら、機を見て、一瞬、ぱっと大きく身を泳がして、重三郎の右わき深くへ飛び込んだかとみるまに、いい音色です。ぽかりとひと突き、草香の当て身がその脾腹《ひばら》へはいりました。
「笑わしやがらあ。百万石おかかえ、依田流の弓術があきれるよ。おひざもと育ちの八丁堀衆は、わざがお違いあそばすんだ。大口の三郎、おめえも大口あいてかかってくるか!」
「うぬ! か、か、かからずにおくものかい!」
 さるのように歯をむいて、祐筆頭大口三郎が抜いてかかろうとしたのを、手もない、ただのひとひねりです。
「ふざけるねえ。細筆一本でおまんまをかせぐ祐筆のやせ腕が、お江戸自慢のおいらの相手になれるけえ。おとなしくしておりな」
 ぎゅうとさかねじにそのきき腕をねじあげると、ずばりと切りさげたような啖呵《たんか》があまくだりました。
「うすみっともねえまねをするにもほどがあらあ。そんなに目玉を白黒させずとも、うぬの小細工の黒い白いはもうついているんだ。痛い思いをしたくなけりゃ、すなおにすっぱりどろを吐きな」
「いいえ、あの、ありがとうございました。おかげさまで、危ういところをのがれました。その白い黒いは、このわたくしが申します」
 おろおろと泣き喜びながら、まろび出るようにしていったのは、松坂甚吾の妻女おこよです。
「ただいま、このわたくしを前にすえておいて、自慢たらたらとおふたりで申されましたゆえ、なにもかもわかりましてござります。やはり、わたくしたち、夫の甚吾とふたりが疑ったとおりでござりました。と申しただけでは、なんのことやらおわかりではござりますまいが、そちらの大口三郎さまは、いうも身の毛のよだつ人非人でござります。忘れもせぬ二年まえ、父が他界いたしますといっしょに、生前なによりたいせつにして、父が秘蔵しておりました子持ちすずりという名のすずりが紛失したのでござります。そこの床の間にありまする小さな桐箱《きりばこ》の中がそのすずりでござりまするが、石は唐の竜尾石《りゅうびせき》、希代の名品でござりますばかりか、不思議が言い伝えがござりまして、女のわたくしがかようなことをあからさまに申しあげますのは心恥ずかしゅうござりまするが、子のない家にそのすずりを置けば、必ず子宝が得られますとやらいう言い伝えにちなみまして、いつのまにか子持ちすずりという名がついたとか申すことでござります。それゆえ、父もことのほかたいせつにいたしまして、人にも見せないほどに秘蔵しておりましたところ――」
「大口の三郎がさらって逃げたと申されるか」
「いいえ、はじめはだれが盗んだものやら、いっこうにわ
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