とはお相弟子《あいでし》、ご先代松坂兵衛様のご門人でござります」
「いま浪人か!」
「いいえ、やはり当加賀家へご仕官なさいまして、ただいまはご祐筆頭《ゆうひつがしら》でござります」
「なに! ご祐筆頭! そろそろ焦げ臭くなってきやがったな。ひとり身か!」
「いいえ、奥さまもお子さまもおおぜいござります」
「それだのに、なんだとて人の奥方をさらったんだ」
「と存じまして、わたくしもじつはいぶかしく思うているのでござります。りっぱな奥さまがござりましたら、ふたりも奥さまはいらないはずでござりますのに、どうしてあんな手ごめ同様なことをなさいましてさらっておいでなされましたやら、だんなさまの変死だけでも気味がわるいのに、おりもおり、気に入らないことをなさるおかたでござります」
「どこへさらっていったかわからねえか」
「たぶん――」
「たぶんどこだ」
「日ごろから、特別になにやらお親しそうでござりますゆえ、この裏側のお長屋の依田《よだ》重三郎様のお宅ではないかと思われますのでござります」
「何をやるやつだ。やっぱり祐筆か」
「いいえ、依田流《よだりゅう》弓道のご師範役でござります」
「なにッ、弓の師範! そうか! とうとう本においがしてきやがったな。――ねえ、あにい」
「へ……?」
「とぼけた返事をするない。桂馬《けいま》がかりの詰め手というのは、こういうふうに打つんだ。気をつけろい」
「さようでございますかね」
「なにがさようでございますかだ。十手を用意しな! 十手を! まごまごしていたら、依田流のねらい矢でやられるというんだよ。こわかったら小さくなってついてきな」
 なぞからなぞへつづいていた雲の上に、突如として一道の光明がさしてきたのです。時を移さず、名人主従は、教えられた弓道師範依田重三郎の住まいを目ざしました。

     5

 しかし、すぐに押し入るような右門ではない。
 すべての秘密を握っている依田重三郎は、ともかくも加賀百万石おかかえの弓道師範役なのです。うっかり乗りこんでいったら、加賀百万石をかさにきて、さかねじを食わせるかもしれないのです。二つにはまた弓そのものにもゆだんがならないのでした。よしや身には、草香流、錣正流《しころせいりゅう》、江戸御免の武器があったにしても、万に一、ぷつりとやられたら、張り子やどろ細工の人間ではない、ばかりか、伝六というもっぱら手数のかかる男が、すでにもう足なぞをこまかく震わせて、うしろにまつわりついているのです。
「茶にも裏千家というものがあるんだ。おいらも裏右門流で出かけるかね。声を出すなよ。いいかい。こういうふうに回って、こういうふうに来るんだ。ついてきな……」
 そこのへいつづきの境から横へ回って、くぐりをあけると、忍びやかに裏庭へ押し入りました。
 さすがに弓道師範の住まいです。広くとった庭にはけいこ弓の矢場がずっと奥までつづいて、そのこちらに車井戸、井戸にとなって物干し場、――ひょいと目を向けると、小春日のあたたかい日ざしを浴びてひらひらと舞っている幾枚かの干し物が見えました。
 じつに目が早いのです。
「へへえ、弓の大将、やもめだな」
「バカいいなさんな。やもめといやひとり者にきまってるんだ。やもめににおいがあるじゃあるめえし、見もしねえうちから、人のうちのことがわかってたまりますかよ」
「ところが、おいらの鼻は、においのねえそのやもめのにおいまでがわかるから、おっかねえじゃねえかよ。そこにひらひらやっている干し物を、ようみろい、けいこ着、下じゅばん、どれもこれも男物ばかりで、女物はなにひとつ見えんじゃねえか。下男がひとり、依田の大将が一匹、人の数までがちゃんとわかるよ。そっちの法被《はっぴ》は下男のやつだ。こっちの刺し子は依田のけいこ着だ。いわば、おまえとおいらのようなもんさ。――そら! そら! いううちに、変な声が聞こえるじゃねえか。やもめばかりの住まいに珍しい女の声だ、じっと聞いてみな」
 ことばはわからなかったが、何かかん高に泣き叫んでいるような女の声が、切れぎれにふたりの耳を刺したのです。
「さあ、十手だ。どたばたしねえで、ついてきなよ!」
 同時に、つかつかとそこのお勝手口から押し入りました。
「だ、だ、だれだ、だれだ。変なところから黙ってはいりゃがって、どこのやっこだ」
 果然、下男とおぼしき若いやっこが飛び出してきて武者ぶりつこうとしたのを、相手になるような名人ではない。
「おまえなんざ役不足だ。用のすむまで、ゆっくり涼んでいろい」
 ダッと、あっさり草香の当て身をかまして寝かしておくと、声をたよりに奥座敷を目ざしました。
 いるのです。いるのです。
 今まで何かふらち至極な責め折檻《せっかん》でもされていたとみえて、髪はくずれ、すそのあたりもあらわに乱れ
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