しかし、そのかわりに目を射たものがある。いちばん奥のへやの床の間の上に、お高祖頭巾と女の衣装がひとそろい、人を小バカにしたように置いてあるのです。
「ちくしょうめ、さてはあの女へび、ひと皮ぬいで逃げやがったね。それならそうとぬかして逃げりゃ、腰の骨まで痛くしやしねえのに、いまいましいね」
「今ごろごまめの歯ぎしりやったっておそいや。ぶつぶついう暇があったら、戸でもあけろい」
 まずなにはともかくと、伝六に雨戸をあけさせて明るい縁側へ衣装を持ち出しながら、子細に見しらべました。
 お高祖頭巾はもとより、着物も羽織もどっしりと、目方の重いちりめんでした。それに、帯が一本。これもすばらしく品の凝った糸錦《いとにしき》です。
 頭巾《ずきん》の色は古代紫。着物は黒地に乱菊模様の小紋ちりめん。羽織も同じ黒の無地、紋は三蓋松《さんがいまつ》でした。
 武家の妻女ならば、まず二百石どころから上の高禄《こうろく》をはんだものにちがいない。いずれにしても、品の上等、着付けの凝ったところをみると、相当|由緒《ゆいしょ》ある身分の者です。
「しゃれたものを着ていやがらあ。伝六さまの顔でいきゃ、どこの質屋だってたっぷり十両がところは貸しますぜ」
「黙ってろ。ろくでもないことばかりいっていやがる。さっき男に化けていったとき、どんな着付けだった」
「黒羽二重の着流しで、一本|独鈷《どっこ》の博多《はかた》でしたよ」
「刀はどうだ。さしておったか」
「いねえんです。今から思や、そいつがちっと変なんだが、丸腰に白足袋《しろたび》雪駄《せった》というのっぺりとしたなりでしたよ」
「頭は?」
「手ぬぐい」
「かぶっておったか」
「のせていたんです」
 むろん、その手ぬぐいは、髪のぐあいを見られまいと隠したものに相違ない。男が女に化けたものか、女が男に化けたものか、いずれにしてもまえからちゃんと用意して、下に男ものを着込み、上にこの女ものを着付けて、ここへ追いこまれた窮余の末に、上のひと皮を脱ぎ捨てながらゆうゆうと大手をふって、伝六の目のまえを逃げ去ったものにちがいないのです。
「ぼんやりしているから、このとおりいつだって手数がかかるんだ、もういっぺん見せろ」
 なにか手がかりになるものはないかと、いま一度取りあげて丹念にしらべ直しました。
 帯にもこれと思われる手がかりはない。
 頭巾にもない。紋にもない。ちりめんも普通。染めも普通。しかし、その目がたもとの裏へいったとき、ちらりと見えたものがある。
 何のまじないか、着物のたもとにも、羽織のたもとにも、その裏のすみに、赤い絹糸が二本縫いこんであるのです。
 同時でした。
「なんでえ。べらぼうめ。おいらがすこうし念を入れて調べると、たちまちこういうふうに知恵箱が開いてくるんだからなあ。さあ、眼《がん》がついたんだ、駕籠《かご》の用意しろ」
「かたじけねえ。行く先ゃどっちですかい」
「一石橋《いっこくばし》の呉服|後藤《ごとう》だよ。この絹糸をようみろい。江戸にかずかず名代はあるが、呉服後藤に碁は本因坊、五丁町には御所桜と手まりうたにもある呉服後藤だ。ただの呉服屋じゃねえ。江戸大奥お出入り、お手当米二百石、後藤《ごとう》縫之介《ぬいのすけ》と、名字帯刀までお許しの呉服師だ。位が違います、お仕立ても違いますと、世間へ自慢にあそこで縫った品には、このとおり紅糸をふた筋縫い込んでおくのが店代々のしきたりだよ。このひとそろいの着手も、おそらくは城中お出入り、大奥仕えに縁のある者にちげえねえ。早く呼んできな」
「ちくしょうめ。さあ、事が大きくなったぞ。いつまでたっても、だんなの知恵は無尽蔵だね。やあい、人足! 人足、江戸一あしのはええ駕籠屋はいねえかよ!」
 飛び出した声の騒がしさ。右門の知恵も時知らずに無尽蔵だが、伝六の騒々しさも時知らずです。まもなく仕立てた駕籠に乗ると、名人はなぞのひとそろいをたいせつにうちかかえながら、ひたすらに一石橋へ急がせました。

     4

 呉服後藤に金座後藤、橋をはさんで向かい合っているふたりの後藤が自慢の金で掛けた橋だから、五斗と五斗とをあわせて一石橋と名がついたというお江戸名代の橋です。
 この橋たもとに、総格子《そうこうし》六間の間口を構えて、大奥御用呉服所と染めぬいた六間通しののれんが、堀《ほり》から吹きつける風にはたはたとはためきながら、見るからにいかめしい造りでした。
 もちろん、お客も町人|下賤《げせん》の小切れ買いではない。城中お出入りの坊主衆、大奥仕えの腰元お局《つぼね》、あるいはまたお旗本の内室といったような身分|由緒《ゆいしょ》のいかめしいお歴々ばかりなのです。
 駕籠を乗りつけて、ずいとはいっていくと、黙って名人は八丁堀目じるしの巻き羽織をひねってみせました。

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