えで紛失したなどというから不思議に思うんだ。もっとことばに気をつけろ」
ホシはまさしくその女なのです、しめし合わせて裏口から見張りの三人を路地奥へおびき出したすきに、すばやく一味の者たちが反対の表口から盗み出したにちがいないのです。
名人のおもてには、ほのぼのとして血のいろがのぼりました。
「伝六も来たはずだが、見えなんだか」
「参りました。ちょうどなくなった騒ぎのさいちゅうおみえになりましたが、何をおあわてか目いろを変えてこの奥へ駆けこんでいったきり、あのかたの姿が消えてなくなりましたゆえ、なおさら気味わるく思っていたところでござります」
「よしよし。もう騒ぐには及ばぬ。死骸はいつまでも首尾の松へつるしておいたとてなんの足しにもならんから、はよう始末せい」
「やっぱりここへ?」
「おまえらに預けたんではまたあぶない。お番所の塩倉へ運んでつけておくよう手配せい」
不審は伝六の行くえです。小役人たちのことばをたよりに、名人はすぐさま路地奥へ急ぎました。
同時に、目を射た品がある。
突き当たりの大御番組のお長屋の門のわきに、なぞのごとく十手が一本さしてあるのです。まさしく、伝六愛用の品でした。
「しようがないのう。こいつも中でなにかまごまごしているな」
はいってみると、うなぎの寝床のような長いお組屋敷のいちばん奥の一軒の前に、小腰をかがめて必死に力み返っている男があるのです。
だれでもない伝六でした。近づくまえに足音を聞きつけたとみえて、まっかに血走った目をふりむけると、ほっとなったように呼びたてました。
「もうしめこのうさぎだ。門のまえに、伝六ここにありと目じるしの十手をさしておきましたが、ご覧になりましたかい」
「見たからここへ来たじゃねえか。何を力み返ってにらめっこしているんだ」
「女、女! 怪しい女を一匹このうちの中へ追い込んだんですよ」
「お高祖頭巾《こそずきん》か!」
「そう、そう、そのお高祖頭巾なんですよ。お番所をさきに洗ってこの北鳥越へ回ってきたらね、だいじな死骸を盗まれたといって大騒ぎしていたんだ。ひょいと見ると、このお組屋敷の門前を変な女がちらくら走っていやがるからね、夜ふけじゃあるし、ちくしょうめ臭いなと思ったんで、まっしぐらに飛んできたら、このうちの中へすうと消えたんだ。だんなに知らせたくも知らせるすべはなし、一歩でもここをどいて逃がしちゃたいへんと思ったからね、こうしていっしょうけんめいと張り番していたんですよ。いるんです! いるんです! このとおりまだ戸も締まったきりなんだから、中でもそれと気がつきやがって、きっとどこかにすくんでいるんですよ」
なるほど、ぴしりと戸が締まっているのです。
しかし、その玄関さきも、前庭、内庭も、荒れるがままに荒れ果てて、一面にぼうぼうと枯れ草ばかりでした。
「あき屋敷だな」
「冗、冗、冗談じゃねえですよ。中へ消えるといっしょに、まさしく女と男の話し声が聞こえたからね。たしかに人が住んでいるんですよ」
「はいったきり、だれも出てこなんだか」
「男が出たんです。男がね、若い二十七、八の、いい男でした。話し声がぱったりやんだかと思うと、にやにや笑って若い野郎がひとり出てきたんですが、裏も横もそれっきり戸のあいた音はなし、女はどこからも逃げ出したけはいもねえからね。たしかにまだこのうちにいるんですよ」
聞くや、名人がにやりと笑いました。
「な、な、なにがおかしいんです! 笑いごっちゃねえんですよ。こっちゃひと晩寝もせずに腰骨を痛くして張り番していたんだ。あっしのどこがおかしいんですかよ」
「そろいもそろってまぬけの穴があいているから、おかしいんだ。百年あき屋の前で立ちん棒したって、雌ねこ一匹出てきやしねえよ」
「バカいいなさんな。男と女とふたりで、たしかに話をやったんだ。この耳でちゃんとその話し声を聞いたんですよ。この目で男は出てきたところをたしかに見たが、逃げこんだお高祖頭巾の女は、半匹だって出てきたところを見ねえんだからね。溶けてなくなったら格別、でなきゃたしかにいるんですよ」
「しようのねえやつだな。八人芸だってある世の中じゃねえか。ひとりで男と女のつくり声ぐれえ、だれだってできらあ。年のころは二十七、八、いい男が出てきたといったそいつが逃げこんだ女なんだ。大手ふりながら目の前を逃げられて、なにをぼんやりしていたんだい。論より証拠、中はから屋敷にちげえねえから、あけてみなよ」
案の定、戸をあけると同時に、ぷうんと鼻を刺したのは、屋のうちいちめんに漂うかびのにおいです。長らく大御番組小役にあきでもあって、ここに組住まいをしたものがないのか、たたみ、建具、荒れるにまかせたがらんどうのあき屋でした。
へやは七つ。
女の姿はおろか、人影一つあるはずはない。
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