から手が一本出るから、大急ぎで喜七いのちと――」
「ほんとうか!」
「ほんとうとも、ほんとうとも、当人のわたくしがちゃんと出会ったことなんだから、うそはござりませぬ。気味のわるいことになったなと思って、ひょいと座敷の様子を見たら、そのときはじめて、連れ込まれた家が日ごろ朱を買いに行く大西屋さんらしいのに気がつきました。ここにはお秋お冬おふたりの評判娘がおるはずだがと思っておりましたら、にゅっと障子の穴から女の手が出たんでござります。たしかに女の手でござりました。姉かしら、妹かしらと思いましたが、障子をあけてみることもならず、いわれたとおり黙って彫れば五十両になるだろうと思いまして、大急ぎに喜七いのちと、師匠ゆずりのつぶし彫りを仕上げましたら、また目隠しをしろとしかるように声がかかりましたのでな、いいつけどおりいたしましたら――」
「五十両、だれからともなく礼金が舞い込んできたと申すか!」
「そうなんでござんす。くれた人も、頼み手もたしかに大西屋さんのおかたに相違あるまいと思いまするが、だれともさっぱり見当がつきませぬ。しかし、別段わるいことをしたのでもなし、五十両はかたじけないと、さっそくこの女のところへ飛んできたんでございます」
 がぜん、つるから出たつるは、さらに怪しくぶきみなつるを伸ばしました。彫った女は、いうまでもなくお冬に相違ない。怪しき頼み手もまた、栄五郎のいうがごとく、大西屋の中にいた者にちがいない。しかし、だれが頼んだかは全く即断を許さぬ濃いなぞでした。お嫁入りする当夜なのです。親戚《しんせき》縁者の者もあまた招かれていたことであろうし、町内の者もおおぜいてつだいに来ていたことであろう、いずれにしても人の出入りが多かったはずなのです。
 それらのうちのだれかであるか?
 それとも、じつはお冬自身がみずから計ってやったことであるか?
「おもしろくなりやがった。ちょうど夏場だ。知恵袋の虫干しをやろうよ。ここまで来りゃぞうさもあるめえ。栄五郎、大西屋は本石町だっけな」
「そうでござります。あそこは薬種屋ばかり。かどが林幸、大西屋さんはそれから二町ほど行った左側でござります」
「乗り込んでいったら、何か眼《がん》がつくだろう。伝六、ついてきな。――栄五郎もあんまりうつつをぬかしちゃいけねえぜ。女の子なんてえものは、脳に凝りがきたとき、薬味に用いるものだ。師匠に心配させねえように、早く帰んなよ」
 駕籠を飛はして目ざしたのは、お冬の生家大西屋です。

     5

 なるほど、本石町は左右両側一面の薬屋でした。その中で大西屋は指折りの大家ででもあるのか、間口だけでも六間近く、店の者も番頭手代小僧まで合わせると二十人近くはいそうなのです。ずいとはいると、鷹揚《おうよう》でした。
「奥へ通るぞ」
「あの、ちょっと、どなたさまでござります、薬のご用ならこちらで承りまするが、何品でござりましょう」
「これ、勇吉、何をそそういたしまする!」
 早くも見つけたか、やさしくしかっていそいそと出てきたのは、姉娘のお秋らしいしとやかな美人です。目に憂いがあって、どことなく寂しい面ざしでしたが、なかなかのしっかり者とみえて、目ききもたしかでした。
「失礼なことを申して、なんでござります! だんなさまのあの巻き羽織が目につきませぬか。とんだ無作法をいたしました。なんぞご密談でも?」
「少しばかり。そなたがお秋どのか」
「さようでござります。父はちょっと他出いたしましてただいま不在にござりまするが、御用でござりましたら、この秋が代わって承りまするでござります。奥へどうぞ」
 応対のさわやかさ、物腰のしとやかさ、一糸の乱れもない。母代わりとなって妹弟ふたりを育ててくれたとお冬がいったのも、なるほどとうなずかれるのです。
 導き入れた一室は、ちり一つない奥の広やかな客間でした。
「なにから何までがべっぴんだね」
「はい……?」
「いいえ、用のあるのはあっしじゃねえ。だんなえ、ぼんやりしていちゃいけませんよ。こういうご大家へ来ると、伝六はからきし板につかねえんだ。小さくなっていますからね。はええところ虫干しでもおせんたくでも、遠慮なくおやりなせえよ」
 ことごとに鳴り場所を見つけてはいらざる口を出す伝六には取り合おうともしないで、いつも忘れぬあの右門流です。まずじろじろと座敷のうちの器具調度、ひととおりのものに鋭い目を向けました。お冬の慶事がどんなに盛大であったか、その夜のはなやかさを今も物語って、床の間には数々のお祝い物がうず高く積んであるのです。
「おめでたがござりまして、なによりでござったな」
「おかげさまで……お用談はそれについて何か……?」
「さよう。なぞが解けるまではちと他聞をはばかるが、血を分けたお姉御ならばさしつかえもあるまい。お冬
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