右門捕物帖
朱彫りの花嫁
佐々木味津三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)刷毛《はけ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)涼味|万斛《ばんこく》
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1
その第三十二番てがらです。
ザアッ――と、刷毛《はけ》ではいたようなにわか雨でした。空も川も一面がしぶきにけむって、そのしぶきが波をうちながら、はやてのように空から空へ走っていくのです。
まことに涼味|万斛《ばんこく》、墨田の夏の夕だち、八町走りの走り雨というと、江戸八景に数えられた名物の一つでした。とにかく、その豪快さというものはあまり類がない。砂村から葛飾野《かつしかの》の空へかけて、ザアッ、ザアッ、と早足の雨がうなって通りすぎるのです。
「下りだよう。急いでおくれよう、舟が出るぞう――」
「待った、待った。だいじなお客なんだから、ちょっと待っておくれよ!」
こぎ出そうとしていた船頭を呼びとめて、墨田名代のその通り雨を縫いながら、あわただしく駆けつけたのは二丁の駕籠《かご》でした。
場所はずっと川上の松崎《まつざき》渡し。
川のこっちは浅草もはずれの橋場通り、向こうは寺島、隅田《すみだ》とつづく閑静も閑静な雛《ひな》の里《さと》です。
「では、おだいじに……」
「ああ、ご苦労さん。ふたりとも無事に着いたと、おやじさまたちによろしくいっておくれ」
「へえへえ。かしこまりました。奥さま、かさを! かさを! おかさを忘れちゃいけませんよ。もう今夜から天下晴れてのご夫婦ですもの、なかよく相合いがさでいらっしゃいまし……」
お供の駕籠屋たちは、出入りの者らしい様子でした。かさをさしかけられて、はじらわしげに駕籠から出てきたのは、雪娘ではないかと思われるほどにも色の白い十八、九のすばらしい花嫁でした。つづいて、うしろの駕籠から出てきた男は二十三、四。――一見してだれの目にも新婿《にいむこ》新嫁《にいよめ》と見えるうらやましいひと組みです。
相合いがさに見える文字を拾っていくと、日本橋本石町薬種問屋林幸と読めるのでした。
しかし、雨は遠慮がない……。
ザアッ、ザアッと、けたたましく降り募って、しぶきの煙が川一面にもうもうとたちこめながら、さながらに銀の幕を引いたかのようでした。お客はその相合いがさのぬしがふたりきり……。
しぶきの中をゆさゆさとゆられながら、やがて相合いがさは並み木の土手へ上がりました。三本めの桜の横をだらだらと向こうへ降りながら、まもなく相合いがさのふたりが訪れたところは、ひと目にどこかの寮とおぼしきしゃれたひと構えです。
「ばあや。ばあや」
「あら、まあ! 若だんなさまじゃござんせんか! この降りに、どうしたんでござんす!」
「来たくなったから急に来たのよ」
「なんてまあお気軽なおかたでござんしょう。でも、ゆうべお嫁さんをもらったばかりで、まだろくろく式も済まんじゃござんせんか!」
「だから来たのさ。店にいたんじゃ、わいわいとお客がうるさくて、自分のお嫁さんだか人のお嫁さんだかわからないからね。こっちへ逃げてきたら、しみじみと話もできるだろうと思って、こっそりやって来たんだよ。早くしたくをしておくれ」
「なるほど、そうでござんしたか。ほんにそのとおりでござんす。日本橋《あちら》ではお客ばかりでゆるゆるおやすみなさるところもござんすまいからね。ええもう、こっちならば何をあそばそうと、目のあいている者はこのばあやばかりでござんす。そのばあやの目も、近ごろはとんと鳥目になりましてね。これはこれは、若奥さまでござりまするか、――お初にお目にかかります。いいえ、もう恥ずかしがるところはござんせんよ。お嫁にいらっしゃった晩はどなたもそうなんでございますからね。わたくしだっても、今はこんなに年が寄りましたが、昔はやっぱりお嫁にもいきましてね。そうですとも! ええ、ええ。万事このばあやが心得ておりますから、ちっとも恥ずかしいことなんかござんせんよ。じきにもうだんなさまがかわいくなりましてね。ええ、ええ、そうですとも! そうですとも!」
「もういいよ! ばあや! そんなにつべこべといろいろなことをいえば、よけい恥ずかしくなるじゃないか。早くしたくをおやり」
「はいはい。では、まずお湯のかげんでも見てまいりましょうよ、あちらでごゆっくり――」
変わった趣向といえば変わった趣向でした。
男は名を幸吉、もちろん林幸の店の若だんなでした。
新嫁《にいよめ》もまた同じ町内の同じ薬種問屋の妹娘で名はお冬。
秋にしたらいいだろうというのを幸吉がせきたてて、この夏のさなかに式を早め、それがちょうどゆうべのことなのです。早めて式をあげたはいいが、話のとおり日本橋のほうでは人目もうるさいし、何やかやとまだごたつ
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