われているかのようでした。
「用がある! やめろッ」
 なおも束針を運んでぷつりと肉の膚へ刺そうとしていたその手を軽くぎゅっと押えると、光った目で相手の目をじっと見すくめながら、静かに浴びせました。
「どろを吐けッ」
「どろ……?」
「しらっばくれるな! 千人彫りの秘願とやらの何人めにあの生娘の膚をいけにえにしたか知らねえが、同じ朱の色だ。おまえお冬の膚にもいたずらしたろう」
「お冬さん……? ああ、なるほど、本石町の薬屋さんのお妹御ですね」
「彫ったか!」
「冗、冗談じゃござんせぬ。いっこう知らないことですよ」
「でも、知っているような口ぶりじゃないか!」
「知っておりますとも! この朱はあの薬屋さんから買いつけておりますからね、よく知っておりますよ。姉娘のお秋さんはたしか三十、これもべっぴんだが、お冬さんのほうは若いだけにいい膚色のようでござんした。できることなら手がけてみたいとは思いましたが、彫った覚えなぞ毛頭ござんせんよ」
「うそをつけッ。朱の色も同じ、つぶし彫りもおまえのこの流儀だ。ぴかりとこの目が光ったら逃がさねえぞ、彫ったからとて、獄門にかけるの、はりつけにするのというんじゃねえ、頼まれたら頼まれた、盗んで彫ったなら盗んで彫ったと、すなおに白状すりゃいいんだ。どうだよ。名人かたぎが自慢なら自慢のように、あっさりどろを吐きなよ」
「情けないことをおっしゃいますな……てまえも朱彫りの伊三郎とちっとは人さまの口の端《は》にも乗っている男でござんす。生娘の膚が好きで千人彫りの秘願はかけておっても、盗んでまで彫ろうとは思いませんよ。あっしゃくやしくなりました……だんなも江戸っ子ならば、江戸っ子の職人がどんなきっぷのもんだか、よく胸に手をおいて考えてみておくんなさいまし……」
 訴えるようにいった伊三郎の目には、恨めしげな露の光すらも見えました。膚に魅せられたごとく振り向きもしなかったあたり、疑われたことを怨《えん》ずるようなその目の光、どこか生一本の名人気質がほの見えて、まんざらその申し立てはうそでもなさそうなのです。
「なるほどのう。つるは見つかったが、根が違うというやつかな。それにしても、朱色の寸分違わねえのがちっと不審だ。ほかにもこんなさえた朱色を浮かす彫り師があるか」
「いいえ、ござんせぬ。これはてまえが自慢のつぶし彫り、口幅ったいことを申すようでござりまするが、まずこの色では日本一とうぬぼれているんでござります。しいてまねができるものといえば、弟子《でし》の栄五郎が少しばかりやるくらいのものですよ」
「なにッ。弟子がやるか! その栄五郎とやらは、いくつぐらいだ」
「二十八でござります」
「女は好きか!」
「さよう、きらいなほうじゃござんすまいね。ちょくちょく呼び出し状が舞い込んできたり、よる夜中、こっそり女が表へ会いに来たりしますからね。まず人並みに好きでしょうよ」
「姿が見えぬようだが、どこへ行った!」
「それが少しおかしんですよ。一昨晩、さよう、たしかにおとついの夕がたでござんした。だれからのものか、いつものような呼び出し状が届きましてね、こそこそと出ていった様子でしたが、一刻ほどたってから、何がうれしいのか、にやにややって帰ってくると、そのままおおはしゃぎで念入りにおめかしをしてから、ふらりとまたどこかへ出ていったきり、いまだに帰ってこないんですよ」
 きらりと名人の目が鋭く光りました。つるにつるが新しくはえてきたのです。
「居間はどこだ」
「下でござります」
「案内しろ」
 玄関わきの六畳へはいっていくと同時に、名人の目は、はしなくもその小机の上に止まりました。不思議やな、小机の上には幾本かの扇子が束になって置かれてあるのです。筆もある。絵の具ざらもある。絵心のないものに彫りはできないのであるから、絵筆絵の具に不思議はないが、束にしておいてある扇子がいかにも不審なのです。
「おやじ、栄五郎は下絵がうまいか」
「うまい段じゃござんせぬ。絵かきになるつもりで修業をしているうちに、ふいっと彫り物がやってみたくなりましてこの道へはいったんでございますから、玄人はだしの絵をかきますよ」
「よしよし。何か眼がつくだろう。あざやかなところをお目にかけようぜ」
 取りあげてその扇子を開いてみると、なぞのような絵となぞのような字がかかれてあるのでした。絵は咲きみだれた小菊、すみに小さく両国新花屋と見えるのです。しかも一本だけではない。五十本ほどの扇子のほとんど半数に、同じその絵その文字が見えました。同時です。
「伝六、駕籠《かご》だッ」
「ちぇッ、たまらねえね。行く先ゃどこですかい。こないだは箱根へとっぱしったが、今度は奥州|仙台《せんだい》石巻《いしのまき》とでもしゃれるんですかい」
「両国の新花屋だよ」
「新花屋! は
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