あれを借りてきなよ」
「あッ、お越しだ。ただいま、ただいま。ただいまおあけいたします……」
 あわててお冬が奥のへやへ駆け込んだのといっしょに、黙々としてはいってきた名人を見ると、越後《えちご》上布におとし差し、みずぎわだった姿に変わりはないが、その顔いろに曇りが見えるのです。何を訴えて依頼したか、書面のうちに書かれてある変事に対して、何か気に染まぬことでもがあるらしい顔いろでした。
「ようこそ、お出ましくださりました。てまえが幸吉、わざわざお呼びたていたしましてあいすみませぬ」
「…………」
「あの、あの、てまえが書面のぬしの幸吉でござります。何やらご不興の様子でござりますが、何かお気にさわりましたんでございましょうかしら……」
「大さわりだ」
「では、あの、お力をお貸しくださるわけにはまいりませぬか」
「あまりぞっとせぬが、たっての願いとあればしかたがない。ほかの仁に頼むとよかったな」
「ごもっともでござります。いわば私事でござりますゆえ、重々ご迷惑と存じましたが、なにしろ親兄弟にもうっかりとは明かされぬないしょごとでござりまするし、家内めもほかのおかたにお願いして世間に知れたら生きてはおれぬと申しますゆえ、だんなさまなら必ずともに他人へ知れぬよう、ご内密にご詮議《せんぎ》くださることと存じまして、失礼ながらあのようなお願いの書面をさしあげたのでござります」
「伝六は喜ぶだろうが、身どもにはありがた迷惑だったかもしれぬのう」
「へ? なんですかい。あっしが何をどうしたというんですかい」
「黙ってろ。まだはめをはずすには早いんだ。おまえには目の毒、おれには虫の毒、こういう色っぽい詮議をすると、二、三日おまんまがまずいから二の足を踏んだが、すがられてみりゃいやともいえまい。実物を見せてもらおう。花嫁御はどこだ」
「奥でござります。おい。冬! 冬! だんなさまがお力をお貸しくださるとおっしゃいましたぞ! もう心配はない! はよう来てお見せ申せ!」
「…………」
「何を恥ずかしがっているんだ。右門のだんなさまにお見せ申すんなら、ちっとも恥ずかしいことはない。早くせんか!」
 せきたてられて、おずおずとお冬は奥から出てくると、丸あんどんの向こうへ隠れるようにすわりながら、ひた向きにさしうつむいてはじらいつづけていたが、ついに思いを決したか、パッと首筋までもまっかに染めなが
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