、ここでは法泉寺一軒きりでございますからね。寺男でも頼んでまいりましょう。それでようございましょうね」
「けっこうだとも! 早くしておくれ!」
 ばあやをせきたてて、幸吉はその場に筆をとりながら、何かこまごまと書きしたためました。よくよくぶきみなできごとででもあるとみえて、新嫁のお冬はひと間に隠れたきり、顔もみせないのです。
 やがてまもなく、ばあやに伴われてきたのは、朴訥《ぼくとつ》らしい寺男でした。見るなり、幸吉のことばは火のつくようでした。
「早く! 早く! 早くしておくれ! 大急ぎだよ! 川を越したら駕籠《かご》をを飛ばしてね、このあて名のところへすぐ行っておくれ」
「わかりました。八丁堀ですね」
「ああ、八丁堀だよ。右門のだんなさまといやあ、すぐわかるはずだからね。ほら、お使い賃をあげます。人に知られると、女房が、いや、女ひとり死ぬようなことになるかもしれんからね。右門のだんなさまにも、なるべくこっそりこの書面をお渡ししておくれ――」
 秘密秘密と、ひたかくしに隠しているところをみると、よくよく穏やかならぬできごとに相違ないのです。ザアッ、ザアッと、いまだにふりしきる夕だちの中を、雨がっぱにくるまった寺男の姿が、ぬれつばめのように土手の向こうへ消えました。

     2

 待つ身には、四半刻《しはんとき》が二刻にも三刻にも思えるような長さでした。
 とっぶり暮れてしまえば、向島もこのあたりになると、まったくもう灯《ひ》の影もない。
 雨はやんだが、そのかわり、夕だちあとの夜風が出たとみえて、ざわざわと岸べの蘆《あし》が気味わるく鳴きながら、まだ暮れたばかりの宵《よい》だというのに、まるで深夜のようなさみしさなのです。
「だいじょうぶだいじょうぶ、今さらくよくよ心配したとてどうなるもんでもない。気を大きく持っていなくちゃいけないよ」
「…………」
「なんだね。泣いてばかりおって、しようがないじゃないか。もう少しのしんぼうだから、しっかりしておいでよ」
 しんしんとただひたすらに泣きつづけているお冬をしきりといたわり慰めているところへ、けたたましく表先で呼びたてたのは、まさしく伝六でした。
「どこだ、どこだ。入り口ゃどこだよ。この家にゃ目も鼻もねえじゃねえか。ちょうちんをつけな! ちょうちんをな! 観音さまへ行きゃ大きなやつがぶらさがっているから、なければ
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