声が乗りだしました。
「さるも木から落ちるんだからな。それに、この夏場じゃ知恵袋にもかびがはえますよ」
「黙ってろ。お秋どの!」
「あい」
「いかにも不思議じゃが、当夜はお冬どののお身のまわり、だれがおやりなさった」
「わたくしでござります。たったひとりのかわいい妹、日ごろわたくしが母代わりになっておりましたゆえ、当夜もこのわたくしが片ときも目を離さず、なにから何まで世話をしたのでござります」
だのに、障子の穴からにゅっと手が出たとすれば、怪奇の雲はいよいよ怪奇な雲に包まれてきたのです。
「…………」
青い顔でした。黙然として立ち上がると、名人右門は珍しやしんしんとうち沈んで、思いあぐねたようにふらふらと真昼の表口をどこへともなく歩きだしました。あたりまえなことにちがいない。一本つるをつかんだら、ホシを逃がしたことのない右門なのです。それが、いま一歩というところまでたどり着きながら、ばったりと大きな岩にぶつかったのでした。つるはある。手が障子の穴からにゅっとのぞいたというつるはある。しかし、どちらへ掘り下げていったらいいか、喜七いのちの正体は根も見せないのです。
「だめですよ。そこは日本橋だ。何をぼんやりしているんですかよ!」
「…………」
「じろじろと人が見ているじゃござんせんか。日本橋から飛び込んだっても死ねやしませんよ。五十三次東海道へは行かれるが、冥土《めいど》へ行くなら道が違うんだ。だんならしくもねえ、こっちまでが悲しくなるじゃござんせんか。しっかりおしなせえよ」
だが、名人は黙々、しんしん、そこが日本橋であるのも、橋の上であるのも知らないもののように、ぼんやりとたたずみながら、うち考えたままでした。
もはや策はない……。
ただ疑われるのは、お冬自身がはたして真実の陳述をしているか否かです。女だ!――心の秘密はわかるものでない。虫も殺さぬような美しい顔をしていて、じつはとうからもう喜七虫がついていたかもしれないのです。
それにしても、もどかしいのはその喜七の何者であるか、さらに目鼻のつかないことでした。
暑い日ざかりでした。
青い顔でした。
悲しげな目の色でした。
「効験あらたかってえおまじないはねえのかな。ね、ちょっとあごをなでてみてごらんなせえよ。なんとかなるかもしれねえんだから……え、ちょっと」
「…………」
「あやまったな、もうい
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