ですがね。だんなも彫りはお好きですかい」
「好きなればこそ目についたんだ。いかにも胸のすくような朱色だな。さだめし、名のある彫り師だろうが、どこのだれだ」
「それがちっと変わっておりましてね、評判のたつのを当人が好かねえんで、あんまり世間に知られちゃおりませんが、神田の代地の伊三郎《いさぶろう》ってえいうちょっと気性の変わった名人はだの親方ですよ」
「道理でのう。おれも江戸の彫り師なら五、六人名のある男を耳に入れていねえわけじゃなかったが、このつぶし朱彫りだけは見当がつかなかった。彫り師によっちゃ、いっさい女の膚を手がけねえのがいるようだが、大将はどっちだい。女も彫るのかい」
「彫る段じゃござんせぬ。一生に若い女を千人彫ってみてえと、千人彫りの願までたてているとかいう話ですよ」
「なに! 若い女!――におってきやがったな! 伝六! 伝六!」
「…………」
「何をふうふうゆだっているんだ。話ゃ聞いたろう。眼《がん》がつきかかったんだ。早く上がりなよ」
「ええ、ええ、わかりました、わかりました。ようやく長湯をなすったいわく因縁がわかりましたがね。長湯にもよりけりだ。あっしゃもう……あっしゃもう……酢にしてもらいたくなりましたよ。骨までがゆであがって、ぐにやくにゃになっちまったんです。ええ、このとおり。ね、ほら。もう、ろれつも回らねえや……」
 回るはずもない。
 鳴ろうにも鳴りようがないのです。
 幾本かあるつるの中から名人の選み出したのは、じつに彫り師詮議のつるでした。朝湯に来たのもそれがため、てんぐぶろを選んだのもそれがため、伝六をゆでだこにしたのもまたそれがため、すべてが右門流のあざやかな機知によって、名人十八番からめ手詮議のつるは、ついにかくのごとく今みごとにたぐりよせられたのです。
 朝まだき、夏の大江戸の町は、すがすがしい涼風でした。神田の代地は、柳原寄り、籾倉《もみぐら》前の狭い一郭である。軒ごとに捜しても、百軒とはない。
「あのうちだ、あのうちだ。あのひょろひょろとした長っぽそい二階家がそうだというんですよ」
 家捜しとなれば伝六自慢の一つの芸です。たちまちかぎ当てて、主従の足は、ちゅうちょなく千人彫り秘願の彫り師伊三郎の住まいを目ざしました。

     4

 小格子《こごうし》造りの表に立って、ひょいとのぞくと、玄関口になまめかしい女物のげたが一足
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