捜し求めている彫りはないのか、ひと渡り見しらべてしまうと同時に、名人のおもてには明らかな失望の色が現われました。
 いやそればかりではない。出たかと思うとまたはいり、はいったかと思うと熱い中へじっとつかって、なかなか名人が上がらないのです。
「かなわねえな。そんなに欲をかいてなんべんもはいったからとて、なんの足しにもならねえんだ。またあしたの朝来ればいいんだから、とっととお上がりなさいよ」
 そろそろと鳴りだした伝六をしりめにかけて、出たかと思うとまたはいり、はいったかと思うと黙々とつかりながら、しきりに来る客、来る客と入れ替わり立ち替わりやって来る朝湯の客の背中を調べつづけました。三人、五人と、彫りのある背中が見えたが、しかし捜し求めているいれずみは容易に見当たらないとみえて、かれこれ一刻近くになるのに、まだ上がらないのです。とうとう伝六がゆでだこのようにふらふらとなりながら音をあげました。
「物にはほどってえものがあるんだ。あっしゃ朝湯のけいこをするために生まれてきたんじゃねえんですよ。あっしをゆで殺す了見ですかい!」
「でも、さっき出がけに、おまえ、たいそうもなく大口をたたいたじゃねえかよ。朝湯ならいちんちはいったっても飽きがこねえとかなんとかいってね。まだ日が暮れるまでには間があるよ」
「いちいちと揚げ足を取りなさんな! 物にほどがありゃ、ことばにだっても綾《あや》があるんだ、綾ってえものがね。いちんちはいっていたら朝湯じゃねえ、晩湯になるじゃねえですかよ。何が気に入らなくて、あっしをこんなにゆであげるんです! え! ちょっと! あっしのどこがお気にさわったんですかい!」
 早雷が落ちかかったとき、ひょっくりとはいってきた新客がある。同時に、名人の目がきらりと鋭く輝きました。
 背にある彫りがあの色なのです。お冬の二の腕に張りついていたあの色と同じすき通るような朱色のつぶし彫りなのでした。図がらもまたいかにもすっきりとあくぬけがして、斑女《はんにょ》の面がたった一つ。その面がさえざえとした朱色一つのつぶし彫りになって、その朱の中から、目と鼻と口が、いともみごとにくっきりと浮き上がっているのです。
「ホシだ。おい、あにい!」
 さっと湯舟から上がると、名人がずかずかと近よりざま呼びかけました。
「あにい、りっぱな看板だな。ほれぼれしたよ」
「それほどでもねえん
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