右門捕物帖
闇男
佐々木味津三
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)四谷《よつや》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)比丘尼店家主|弥五六《やごろく》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「くしへ」は底本では「ぐしへ」]
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1
――その第三十番てがらです。
事の起きたのは新緑半ばの五月初め。
さみだれにかわずのおよぐ戸口かな、という句があるが、これがさみだれを通り越してつゆになったとなると、かわずが戸口に泳ぐどころのなまやさしいものではない。へそまでもかびのただようつゆの入り、というのもまんざらうそではないくらい、寝ても起きても、明けても暮れても、雨、雨、雨、雨……女房と畳を新しく替えたくなるというのもまた、このつゆのころです。
しかし、取り替えようにもあいにくと妻はないし、伝六はあいかわらずうるさいし、したがってむっつり名人のきげんのいいはずはない。
「四谷《よつや》お駕籠町《かごまち》比丘尼店《びくにだな》平助ッ」
「…………」
「平助と申すに、なぜ返事をいたさぬか!」
「へえへえ。鳥目でござえますから、どうかもっと大きな声をしておくんなせえまし……」
お番所同心控え席の三番、それが名人右門の吟味席です。その控え席でそこはかとなくほおづえつきながら、わびしく降りつづけている表の雨を見ながめていると、隣二番のお白州、これが右門とは切っても切れぬ縁の深いあばたの敬四郎の吟味席でした。その二番の席で、敬四郎が何を吟味しているのか、しきりといたけだかになってどなりつけているのが聞こえました。
「人を食ったやつじゃ。鳥目ゆえ耳がきこえぬとは何を申すかッ。上役人を茶にいたすと、その分ではさしおかんぞ」
「でも、当節は耳のきこえぬ鳥目がはやりますんで……」
「控えろッ。いちいちと嘲弄《ちょうろう》がましいこと申して、なんのことかッ。通り名は平助、あだ名は下駄平《げたへい》、歯入れ、鼻緒のすげ替えを稼業《かぎょう》にいたしおるとこの調べ書にあるが、ほんとうか」
「へえ、さようで。稼業のほうはたしかにげたの歯入れ屋でごぜえますが、あだ名のほうはあっしがつけたんじゃねえ、世間がかってにつけたんでごぜえますから、しかとのことは存じませぬ」
「控えろッ。ことごとに人を食ったことを申し
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