さんたちが買いきりの船なんだ。二文三文の安お客を乗せる渡しじゃねえんですよ」
「なんでえ、なんでえ。二文三文の安お客たア、どなたにいうんでえ。腰の十手がわからねえか! お上御用でお乗りあそばすんだ。向こうっ岸までとっとと出しなよ!」
 飛び乗って、ギーギーと急がせながらこぎつけたところは、大川を横堀《よこぼり》へはいった興照寺のちょうどその裏手でした。ちらりと見ると、岸にのぞんだ大きな柳の陰に、だれを乗せてきたのか、だれを待っているのか、こざっぱりとした伝馬《てんま》が一艘やはりつながれてあって、六十がらみの日にやけた船頭が、ぷかりぷかりとのどかになた豆ギセルから紫の煙を吐いているのです。あがりぎわに何心なくひょいとその船の中をのぞいてみると、いともなまめかしい品がある。大がらのはでな座ぶとんが一枚、そばにはまたさらになまめかしい朱ぬりの箱まくらが置かれてあって、その上に朱羅宇《しゅらう》が一本、タバコ盆が一個。乗り手の主こそ見えないが、いずれもそれらはひと目にそれと、使用の客の容易ならぬあだ者であることをじゅうぶんに物語っている品々ばかりなのでした。――烱眼《けいがん》はやぶさのごとき名人が見すごしするはずはないのです。
「ウフフ。献立がちゃんとできていらあ。こっそり裏手から船をつけて、尾のあるきつねが日参りするたア、これこそほんとうにお釈迦《しゃか》さまでもご存じあるめえよ。ぽうっとなるようなところ見せつけらても、鳴っちゃいけねえぜ」
 ぐるりと築地塀《ついじべい》を回って表山門からはいってみると、門には額がない。まさしく寺格は一真寺よりも下てあるはずなのに、だが、境内の様子、堂宇の取り敷きなぞは、不審なことにも本寺よりずっと裕福そうでした。――いぶかりながら、見とがめられぬように本堂の横から裏へ回って、方丈の間とおぼしきあたりの内庭先へこっそり忍び入ってうかがうと、果然目を射たのは、そこのくつ脱ぎ石の上に脱ぎ捨てられてある一足のなまめかしい女げたでした。しかも、穏やかならぬ気勢が聞こえるのです。甘えるような女の声に交じって、ほそぼそとさとすような若上人の声が障子の中から漏れ伝わりました。それっきりしいんと怪しく静かに、静まり返ったかと思うと、やがてまもなく加持|祈祷《きとう》でもはじめたものか、まことしやかなもみ数珠《じゅず》の音につづいて、もったいらしげな称名唱和の声が伝わりました。
「ちきしょう、あの手この手を出しやがらあ。くやしいね。とんだ引導を授けていやがるんですよ。はええがいいんだ、飛び込みましょうよ!」
「黙ってろ」
 目顔でしかりつつ、息を殺して木立ちの陰にたたずみながらうかがっていると、ぴたり祈祷の声が終わると同時に、ふたたびまたしいんと怪しく静かに静まり返って、ややしばし気にかかる沈黙がつづいたかと思われるや、とつぜん、シュウシュウと帯でも締め直したらしい気勢が聞こえるといっしょに、すうと障子があいて、あたりをはばかるようおしろい焼けの素顔もかえって艶《えん》な二十六、七の、すばらしいあだめかしい年増《としま》女です。つづいてあとから現われたのは、それこそ問題の興照寺住職にちがいない。目のさめるようなみずみずしい美男僧でした。――見ながめて、すいと身を現わしながら、歩み近づこうとしたとき、だが、意外なことばをふたりがかわし合いました。
「では、おだいじに。母上にもよろしゅう」
「申しましょう。おまえもたいせつにな」
 耳にするや同時です。にたりと苦笑を漏らして名人が、そのままものをもいわず、さっさと足を早めながら山門の表に引っ返していったので、たちまち早雷を鳴らしだしたのは伝六でした。
「な、な、何がどうしたというんですかよ。せっかくねらいをつけただいじなかもを、あの場になってのがすたアどうしたというんです! え! ちょっと? ご返答しだいによっちゃ覚悟があるんだからね。何がいったいどうしたというんですかよ!」
「ウフフフ。とんだ大われえさ」
 こらえきれないもののごとくうそうそ笑うと、吐き出すようにいいました。
「いったっておまえは承知しめえ。じかに当たってみるほうが早わかりするだろうから、女を洗ってきてみなよ」
「くやしいね! そんなにそでにするなら、ようがすよ。あとであやまりなさんな!」
 ぶりぶりしながら、裏手のあの小舟目ざして姿を消したかと思われたが、ほどなく帰ってくると、いばっていったその伝六が、いかにもきまり悪げに頭をかいているのです。――見迎えながら名人が大きく笑って、ずばりと浴びせました。
「どうだい、あにい。りこうになったろう。きょうだいでござりますといわなかったかい」
「ね……!」
「ねだけじゃわからないよ。いったか、いわなかったか、どっちなんだよ」
「いったんですよ。姉と弟じゃね
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