ね」
「少しくれえあったって、がまんおしなせえよ。こうなりゃはええほうがいいんだからね。お召し物は?」
「糸織りだ」
「出ました、出ました。それから?」
「博多《はかた》の袋帯だ」
「ござんす、ござんす、それから?」
「おまんまだ」
「ござんす、ござんす。それから?」
「…………」
「え! ちょっと! かなわねえな。もう出かけたんですかい」
すうと立ち上がると、蝋色鞘《ろいろざや》を落として、差して、早い、早い。声もないが、足も早いのです。
行くほどに、急ぐほどに、町は春、春。ちまたは春です。鐘は上野か浅草か、八百八町は花に曇って、浮きたつ、浮きたつ。うきうきと足が浮きたつ……。
「てへへ。参るほどに、もはや上野でおじゃる、というやつだ。歌人にはなりてえもんだね。ひとり寝るのはいやなれど、花が咲くゆえがまんできけり、というやつアこれなんだ。たまらねえ景色じゃござんせんかい。え! だんな?」
「…………」
「ちぇッ。またそれをお始めだ。世間つきあいてえものがあるんですよ、おつきあいてえものがね。みんなが浮かれているときゃ、義理にも陽気な顔をすりゃいいんだ。しんねりむっつりとまた苦虫づ
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