、ぽたりどころの騒ぎじゃねえんです。からかみから、びょうぶから、着て寝ている夜具ふとんまでがぐっしょりと水びたしになっているというんですよ。それがひと晩やふた晩じゃねえんで、毎晩知らぬまに、出どころたれどころのわからねえ幽霊水にぐっしょりとぬれているんでね。とうとう気味がわるくなって、四日めに宿屋を替えたんですよ。するてえと、だんな――」
「また出たか」
「出た段じゃねえんです。泊まり替えたその宿屋でもまた、朝になってみるてえと、衣桁《いこう》にかけておいた着物までが、ぐっしょりと水びたしになってね、おまけにまだぽたぽたとしずくがたれていたっていうんですよ。だから、すっかりおじけをふるって、その日のうちにすぐまた三度めの宿を替えたら、ところがやっぱり幽霊水があとをつけてくるというんです。しかも、おまえさん、いいえ、伝六だんな、それからっていうものは、いくら宿を取り替えても、必ず朝になるてえとぐっしょり何もかもぬれているんでね。だから、とうとう――」
「よし、わかった。べらぼうめ。ほかならぬこの伝六様がお住まいあそばす江戸のまんなかに、そんなバカなことがあってたまるけえ。おおかた、河童《かっぱ》の野郎か雷さまの落とし子でもが、そんないたずらするにちげえねえんだ。さあ来い。野郎ッ。どうするか覚えてろッ」
「いえ、もし、ちょっとちょっと、血相変えてどこへいらっしゃるんです。まだあるんですよ。まだこれから肝心な話がのこっているんです」
「なんでえ、べらぼうめ。じゃ、おめえはおれに、その幽霊水の正体を見届けてくれろと頼みに来たんじゃねえのかい」
「来たんです。来たんだからこそ、このあとを聞いておくんなさいましというんです。だからね、嵐の三左衛門もとうとう考えちまったというんですよ。こいつあただごとじゃねえ、どいつかきっと意趣遺恨があって、そんなまねするんだろうとね、いろいろ考えて、あれかこれかと疑わしい者に見当つけていったところ、同じその奥山で小屋を並べながら、やっぱり若衆歌舞伎のふたをあけている、江戸屋江戸五郎っていう役者があるんですよ。名まえのとおり三代まえからのちゃきちゃきの江戸っ子なんですが、疑ってみるてえと、どうもこれが怪しいとこういうんです。というのは、どうしたことか、この江戸屋江戸五郎のほうが最初から人気負けしておりましてね、芸だってもそうたいして違っちゃいねえし、なにをいうにもおひざもとっ子なんだから、人気負けなんぞするはずはねえと思うのに、三左衛門の大坂下りっていうのが珍しいのか、ふたをあけてみたらからきし江戸屋のほうに入りがねえっていうんです。だから、三左衛門がいうのには、きっとその江戸五郎が人気負けした意趣晴らしに、毎晩宿へ忍び込んで、あんなけちをつけてまわっているにちげえねえ、とこういうんですよ。でなきゃあ、行く先泊まり替えた先にまで水が降るってはずアねえんだからね、江戸五郎自身がしねえにしても、だれか忍術でも使う手下をそそのかして、あんな気味のわるいまねをさせるんだ、とこういうんです。むろんのことに、そいつあ疑いだけのことなんで、現の証拠を突きとめたわけじゃねえんだが、てっきりもう江戸屋のしわざにちげえねえと、嵐三左衛門が会う人、出会う人に吹聴《ふいちょう》したからたまらねえんです。江戸屋江戸五郎もなさけねえ了見になったもんだ。てめえの芸のまずいのはたなにあげておいて、人気の出ねえ意趣晴らしに、水いたずらをするたアなにごとだ。江戸役者のつらよごすにもほどがあらあと、まあこういうわけでね、ひいきのお客までが、すっかりあいそをつかして人気はますますおちる、それにひきかえ嵐三左衛門のほうは、幽霊水のうわさと評判がますます人気をあおりたててね、知らぬ旅先へ興行に来て、あんまりうますぎるところから、意趣を含まれるほどの役者なら、さだめしじょうずだろうと、人気が人気を呼んで、毎日毎日大入り繁盛しているというんです。――ねえ、だんな! むかっ腹をたてておくんなさいというのは、ここのところなんです。ねえだんな!」
「…………」
「え! 伝六だんな! ねえ、だんな! だんなは腹がたちゃしませんかい。おたげえ江戸っ子なら、だれだってもきっとあっしゃ腹がたつと思うんだ。考えてみてもごらんなさいまし。江戸屋の江戸五郎がほんとうにやったという、現の証拠を突きとめてのうえで、かれこれと三左衛門が人に吹聴するならもっとも至極な話なんだが、ねこがやったか、きつねがいたずらしたかもまるきし見当がつかねえうちに、罪を人に着せて、それでもって人気をあおるなんて、どう考えてもあっしゃ上方|贅六《ぜいろく》のそのきっぷが気に入らねえんです。また、江戸屋の親方にしたっても、生まれおちるからの江戸っ子なら、芸ごとのうえで人気負けしたのを根に持って、人の寝込
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