せぬ」
「なにもあやまることはない。師匠は、三左衛門は小屋のほうか」
「へえい、朝の四ツから幕があきますんで、もうとうに楽屋入りしたんでござります」
「荷造りしているところをみると、今晩もまたどこかへ宿替えしようというんだな」
「へえい、こう毎晩毎晩じゃ、命がちぢまるさかい、今夜からお師匠はんもわてたちといっしょに楽屋で寝よういいなはるよって、荷ごしらえしているのでござります」
「というと、宿を取って寝るのは、いつも三左衛門ひとりきりか」
「へえい、そうでござります」
「なら、ゆうべのもよう、おまえではよくわからぬな」
「いいえ、わてはいっしょに泊まらいでも、お師匠はんから聞いたり、宿の衆からも聞いたりしておりますさかい、よう知ってまんね。まるでな、ねこほどの足音もさせいでな、朝になってみると知らぬまにこのとおり水びたしになっていますのや。な、ほら、たたんでおいたお召し物までが、このとおりぬれてまっしゃろ」
「ほほう、いかにもな。すると、なんじゃな、いつ忍び込んで、いつこんないたずらをするのか、今まで一度も下手人の姿は見たことがないというのじゃな」
「へえい、姿はおろか、影も見たことがないよって、よけい気味がわるいとお師匠はんもおっしゃってでござります」
「なら、ちと不審じゃな。姿も顔も見せぬ者が、なぜまた江戸屋江戸五郎のしわざとわかるのじゃ」
「そ、それはあんた、江戸五郎はんが水芸を売り物にして盆興行のふたをあけていやはりますさかい、だれかて疑いのわくがあたりまえやおまへんか」
「なるほど、水芸とな。どんな水芸じゃ」
「立ちまわりしていなはるさいちゅうに、足の先から水が吹いたり、刀の先からしずくが散ったりしますさかい、だれかて江戸五郎はんの水忍術、疑うはあたりまえでござります」
「ほほうのう、水忍術[#「水忍術」は底本では「水忍衛」]を使うとは、ちと容易ならんことになってまいったな。よしよし、久方ぶりじゃ、知恵袋にかびがはえぬよう、虫干しさせてやろうよ」
 いいながら、そろりそろりとあごのあたりをなでなで、巨細《こさい》にへやのうちを調べだしました。見ると、ふすま、障子はいうまでもないこと、壁からびょうぶまでがことごとく同じ幽霊水に襲われているのです。さすがに障子だけはもうかわいていたが、ふすまもからかみも、下半分は一面にしみが残って、じっとりとまだ湿ったままでした。しかも、その水しみが、あたかも今いった水芸でぽたりぽたりしずくをたらしたようなしみばかりなのです。当然のごとく、名人の目はさえ渡りました。天井から雨だれのようにでもたれおちた形跡があれば格別だが、申し合わせたように下半分へ、それもあきらかにへやの中からふりかけたらしい痕跡《こんせき》があるところを見ると、嵐三左衛門ならずとも、その下手人としての疑いを水芸達者の江戸五郎にかけたくなるのは当然なことだったからです。しかし、それにしても、ひと晩やふた晩ならともかく、十日のうえも寝ているへやの中へ忍びこまれて、しかもこれだけの水いたずらされながら、まるで知らないというのは、いかにも不思議といわざるをえない。
「ね……?」
「…………」
「箱根から東へはお化けも河童《かっぱ》も出ねえってことに相場が決まってるんだが、なにしろお盆がちけえんだからね。怨霊《おんりょう》のやつめ、三途《さんず》の川で見当まちげえやがって、お門違いのおひざもとへ迷ってきやがったかもしれませんぜ。ええ、そうですよ。そうですとも! たしかに、こりゃだれかの怨霊のしわざにちげえねえんですよ。そうでなくちゃ、だれにこんな気味のわるいまねができるもんですか」
「…………」
「ええ、そうですよ。そうですとも! いくら江戸屋の江戸五郎が水芸達者のけれん師であったにしても、舞台と地とでは場所が違うんだからね。伊賀《いが》甲賀の忍術までも使えるはずがねえんだ。ええ、そうですとも! それにちげえねえんだ。ひょっとすると、こりゃ三左衛門の肩にでもくっついてきた上方|怨霊《おんりょう》にちげえねえんですぜ」
 そろそろと伝六がお株をはじめてさえずりだしたのを、名人はあごをなでなでしきりとあちらこちら見捜していましたが、と――そのときはしなくも目についたものは、へやのすみに置かれてある二枚折りびょうぶの裏側のすそ下のほうに、ぷつりと浅く刺さっている平打ちのなまめかしい銀かんざしです。同時に、きらりその目が鋭く光りました。のっそり近づいて、抜きとりながら手にとりあげてみると、二筋三筋長い髪の毛が巻きついているのです。しかも、平打ちのその銀かんざしの飾り腹に紋があるのです。まさしく、だきみょうがの透かし彫りが見えるのです。――名人のことばは、当然のごとく伝法にさえ渡りました。
「弟子《でし》のあにい! おい、こら、弟子のおに
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