戸錦がぷいと立ち上がって、にたり微笑を漏らすと、
「おいどんが負けでごんす」
 つぶやきながら、さっさとたまりへ引き揚げてしまったからです。それも一突きなりと突きあったうえで、そのうえ土俵を割ったとしたなら、まだ同じあっけなさでも考えようがあるというものですが、今立ち上がるか、いま取り組むかと、さんざん手に汗をにぎらしたうえで、行司が軍配を引くや同時に、ぷいと背をうしろに向けながら、おいどんが負けでごんすと、にやつきにやつき引き揚げてしまいましたので、あっけないというよりか、人を食ったその相撲ぶりに、西も東もあらばこそ、今はもうごっちゃになりながら、いっせいに総立ちとなって、口々にののしり叫びました。
「なんじゃ、見苦しい八百長《やおちょう》か! 八百長ならさし許さんぞ、もう一度取り直せッ。行司、なにをまごまごいたしおるか! 取り直させんか! 取り直させんか!」
 無理もないので、いずれもそれを八百長相撲と解したものか、なかにはお場所がらもわきまえず、土俵に駆け上がってしきりと怒号するものすらもありました。
 しかし、それらの騒ぎをよそにながめて、ただひとり微笑を含みながら、わが活躍のときようやくきたるとばかりに、烱々《けいけい》と眼を鋭く光らしていたものは、余人ならぬわれらの大立て者むっつり右門でありました。この珍中の珍とすべき世にもたぐいのない珍奇な相撲をながめて、早くもわれわれの捕物名人は、なにごとか常人に異なるところを発見したらしく、将軍家ご一統がふきげんな面持ちで、揚げ幕の向こうにお姿を消すまでそこに両手をつきながらお見送りしていましたが、伊豆守様を最後に上《うわ》つ方《かた》のご一統、いずれも引き揚げてしまったのを知ると、ふりかえりざまに鋭く伝六へいいました。
「さ! 伝六ッ、どうやらまた忙しくなったようだぞ」
「えッ、どこかに忍術使いでもいるんですか」
「あいかわらずのひょうきん者だな。今の相撲を見なかったのか!」
「見たからこそ、いってるんじゃござんせんか。あんなおかしな相撲ってものは、へその緒切ってはじめてなんだからね。西方の棧敷《さじき》に忍術使いでもいやがって、あんなまねをさせたんじゃねえかと思うんですよ」
 珍相撲の原因を忍術使いにもっていったところが、いかにも伝六らしい解釈でしたので、右門はあいも変わらぬあいきょう者のひょうきんな答弁に、こ
前へ 次へ
全28ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
佐々木 味津三 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング