見きわめがついたものでしたから、右門も少しほっとなって若者の傷ついた魂を一刻も早く休息させてやるために、みずから夜具の用意をととのえてやりました。
おりからそれを待っていたもののごとく、いよいよ秋のふけまさった庭の草間で、ちち、と身にしみ入るごとく鳴きだした虫の声に、魂の傷つけられた若者はさらにひとしお世のはかなさをおぼえたものか、いくたびも輾転《てんてん》と床の中で寝返りを打っているけはいでしたが、みずからの明知を信じ、みずからの力量を信ずることの厚い右門は、憎いほどの安らかさを示して、いつかもう軽いいびきの中でした。
2
さて、そのあくる朝です。
いつものごとくおしゃべり屋伝六が、年じゅう忙しくてたまらないといったふうに、せかせかしながらやって来ると、しょうぜんと顔の青ざめた見知らぬ若者が、おどおどしながらへやのすみにうずくまっていたものでしたから、よほど不意を打たれたとみえて、遠慮もなく例のお株を始めました。
「おや、妙な若いお客人が天から降っていますね、だんなのご親類ですかい」
知らない男の顔をみると、すぐに親類と決めてしまう伝六も、およそ血のめぐりのよろしくない男といわねばなりませんが、しかし右門はいまさらそんなむだな質問に答うべきはずもありませんでしたから、伝六の来合わしたのと同時に、すぐさま外出のしたくをととのえました。それがまた、きょうはどうしたことか、黒羽二重五つ紋の重ね着を着用に及んで、熨斗目《のしめ》の上下こそつけね、すべての服装が第一公式のお武家ふうでしたものでしたから、うるさいことにまた伝六が、血のめぐりのよろしくないところを遺憾なく発揮いたしました。
「はてな、きょうは何かご番所に寄り合いでもござんしたかな――」
しきりと首をひねっていましたが、右門はひとことかんたんに前夜の若者へ外出を禁じておくと、いよいよこれから右門流の行動を開始するといわぬばかりに、さっさと表のほうへ出てまいりました。
しかも、出るといっしょにその目ざした方角は、意外や吉原《よしわら》の大門通りです――。誤解があるといけませんから、ちょっと地理についての説明をしておきますが、ここで申しあげる吉原は、むろん現在の新吉原ではないので、特に新吉原と新の字がついているように、現今の吉原は明暦三年の江戸大火以後いまの土地に移転したことになっていますから、この話の当時の吉原は、いわゆるもと吉原と称されている一郭です。和泉《いずみ》町、高砂《たかさご》町、住吉《すみよし》町、難波《なんば》町、江戸町の五カ町内二丁四方がその一郭で、ご存じの見返り柳がその大門通りに、きぬぎぬの別れを惜しみ顔で枝葉をたれていたところから、いき向きの人々はときに往々、柳町なぞとも隠し名にして呼んでいましたが、いずれにしても堅人たること天下折り紙つきのむっつり右門が、それも無粋といえば無粋な黒羽二重の五つ紋といういかめしい武家ふうの姿で、駕籠《かご》もうたせず、おひろいのまま、さっさとその大門をくぐって廓《くるわ》へはいりましたものでしたから、伝六がついにみたびめのうるさい質問を発しました。
「ちょっと待ってください、待ってください。廓へおはいりになるのはよろしゅうござんすが、まさかに、この朝っぱらからお遊びなさるんじゃござんすまいね」
実際、いちいちうるさいおしゃべり屋ですが、しかしまた一面からいえば無理もないのです。流連《いつづけ》大バカ、朝がえり小バカ、いきは昼間のないしょ遊びと番付はできていても、なにしろまだ五つといえば午前の八時なんだから、そんな時刻に大手をふりふり、さもお役所へ勤めにでも行くような気組みをみせて、どんどんと大門をくぐっていったものでしたから、一面からいうと伝六のうるさくなるのも無理のないことでしたが、すると右門がうそうそと笑いながら、おどろくべきことをぽつりといいました。
「廓《なか》へはいる以上は、遊ぶと決まっているじゃねえか。おれとて、石や木じゃねえんだからな」
のみならず、ほんとうに遊ぶけはいで、どこにしようかというようにあたりを物色しはじめたものでしたから、とうとう伝六がうわずった声を出してしまいました。
「そりゃだんな、ほんとうですか!」
「ほんとうだよ」
「きっとですね!」
「きっとだよ」
と――。聞き終わったそのとたんです。何を考えついたか、伝六が突然まっさおな顔になって、ややしばしからだを震わせていましたが、不意に変なことをいいました。
「だんな、あっしゃもう帰らしていただきます」
がらにもないおびえを見せたものでしたから、今度は右門のほうが不思議に思ったので――
「バカだな、いざとなっておっかなくなったのかい」
「いいえ、ちがいます」
「じゃ、うちへけえって、おめかしをし直して来ようとい
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