で、ほんとうの因縁いわれは、徳川の始祖、すなわち神君|家康《いえやす》が、ひどくこの千子院を忌みきらったからのことなのです。なぜ、それほどにきらったかというに、祖父|清康《きよやす》が天文四年尾州|守山《もりやま》の陣において、阿部弥七郎《あべやしちろう》なる者のために、この村正をもって袈裟《けさ》がけの一刀をうけ、弥七郎の帯びていた村正によって、清康の子|広忠《ひろただ》、すなわち家康の父がまた天文十四年に、その家臣の岩松|八弥《はちや》なる者に股《また》を刺され、本人の家康また関ガ原の陣において、これは別な村正でしたが、同様千子院作の槍《やり》のために指を突かれ、さらにその長子|岡崎三郎信康《おかざきさぶろうのぶやす》なる者が、父家康の怒りにあって自刃したとき、これを介錯《かいしゃく》した天方|山城守《やましろのかみ》の一刀がやはり村正の刀だったというところから、数代重なったこの不思議きわまる因縁に権現さまともいわれた家康がすっかりと縮み上がって、自今村正作の打ち物類は見つかりしだい取り捨てるべし、というご禁令をお納戸方《なんどがた》に向かって発したものでしたから、それがいつしか村
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