きのおだんなさまだ。そうとわかりゃ、このとおり急に気が強くなりましたからね。なんでもお尋ねのことはお答えしますが、もしかしたら、今の幽霊の話じゃござんせんかい」
「では、やっぱり、どこかにそんなうわさがあるんじゃな。今そちが、それみろい、いううちに出たじゃねえか、と口走ったようじゃったからな、たぶんそんなうわさでもしいしい来たんだろうと思って呼び止めたのじゃが、いったいそのうわさの個所はどの辺じゃ」
「どの辺もこの辺も、つい目と鼻の先ですよ。そう向こうのよもぎっ原に本田様のお下屋敷が見えやしょう。あの先に変な家が一軒あるんですがね。ふさがったかと思えばすぐとあき家になるんで、何かいわくがあるだろうあるだろうといっているうちに、ついこのごろで、あの山王さんのお祭り時分から、ちょくちょくと変なうわさを聞くんですよ。真夜中に縁の下で赤ん坊の泣き声がしたんだとか、庭先の大いちょうの枝に白い煙がひっかかっていたとか、あまりぞっとしないことをいうんですね」
「さようか。どうもご苦労だった」
「いいえ、どうつかまつりまして――ところで、だんなは、おやッ、ひどくあっさりしてらっしゃいますな。聞いてしまうともうさっさとお歩きですが、ご用っていうのはそれっきりですかい」
 右門ときいて、ひいきの客がひいき役者と近づきになりたがるように、相手はふた足み足追っかけながら、しきりとそれ以上の好意を見せようとしましたが、聞くだけのことを聞いてしまえば先を急ぐからだでしたから、右門は返事もせずに、さっさと伝馬町めがけて足を早めました。
 まもなく、目的の糸屋をみつけましたものでしたから、主人の没後あとあとのことを取りしきっている召し使いの老婢《ろうひ》について、右門は八方から聞かれるだけのことを聞きました。しかるに、事件はどこまで迷宮にはいるつもりであるか、老婢の証明によって、あらゆる見込みと材料が、根底からくつがえされるにいたりました。
 彼女の述ぶるところによれば、いかにも女の客の多かったのは事実であるが、向こうだけのかってなうわきからで、うちの若主人にかぎっては、かつて一度も女との浮いたうわさなどを聞かなかったというのです。それから、肝心の横笛に関する陳述も、同様に右門の予想を裏切りました。先代からの下女奉公であるから、はしのあげおろしにいたるまで知っているが、だいたい問題の笛なるものが親の形見で、だから日ごろその愛用も深く、現にお祭りの前後にはわざわざ自身で吹いてみて音調べをしたくらいだから、それに疑問の点なぞはないという申し立てでありました。してみれば、あの横笛の息穴へあれなる猛毒を塗った時刻も、それを塗った人間の出没した時刻も、お祭りのどさくささいちゅうということにならなければなりませんでしたから、事は迷宮にはいったばかりではなく、いよいよめんどうとなったわけで、さすがの右門も、この一見ぞうさなさそうに見えた事件にことごとく見込みを逸し、すっかり気を腐らして八丁堀へかえりつくと、いつもそういうとき名案を浮かばさすための碁盤にさえ向かう元気すらも失い、ぐったりとそこへあおのけになってしまいました。
 神のごとくに信頼しきっている親分の右門がそうなんだから、おしゃべり屋伝六のしょげかえってしまったことはむろんのことで、ひざ小僧をそろえながらへたへたとうずくまると、泣きだしそうな顔つきで、そこにころがっていた証拠物件のあの横笛を恨めしげにひねくりまわしました。すると同時です。まことに偶然というものはどこにあるかわかりませんが、恨めしげに笛をひねくりまわしていた伝六が、突然とんきょうな叫びを発しました。
「ね。だんな! だんな! この笛の中に、おかしなものが詰まっていますぜ!」
 気を腐らしていたやさきに耳よりなことばでしたから、はね起きざまに奪いとってあんどんにすかしてみると、なるほど伝六のいったとおりです。紙切れの巻いたものが、笛の胴の中に詰められてありましたので、胸をおどらしながら火ばしの先でつつき出してみると、いっしょに右門も伝六もあっと息をのみました。紛れもなく、その紙切れは書き置きだったからです。あまりじょうずな手跡ではなかったが、書き置きの事――と初めにはっきり断わって、次のような文句が乱暴にこまごまとしたためられてあったからです。
「やい、野郎たち、よくもよくもおれを裏切りやがったな。そんな古手でうぬらばかりうまいしるが吸われると思うとあてが違うぞ。くやしくてならんから、いっそのことに訴人してやろうかとも思ったが、それじゃおれの男がすたるから、それだきゃがまんしておいてやらあ。そのかわりに、ただじゃおかねえからそう思え。おれはてめえたちへのつらあてに死んでやるんだ。それもただのところで死ぬんじゃねえんだぞ、さいわい聞きゃ、あさっての山王
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